生まれてから一度も恋をしたことがなかった。
だから、人を好きになる、という気持ちがどうにも理解できない。もちろん、それは異性に対する話であって、同性の友人達を大切に思える感情くらいはある。ただ、友人達を好きだ、というふうに感じるものと、たったひとり、誰か特別な人を好きだ、と感じるのとでは、そこには大きな違いがあるのだろう。
まだ高校生だった頃、友人とのおしゃべりの話題といえば、恋愛の話が大きくウェイトを占めていた。彼女達は、どこどこのクラスのだれだれが格好いいとか、どこどこの部活の先輩は、だれだれと付き合っているだとか、そういう話を好んでする。わたしはそういった話題が苦手だった。やっぱり、追随できない。わたしにだって、素敵な男の子を見れば、そのひとをカッコいいと思うことくらいはある。それくらいの感性は誰だって持ち合わせているだろう。けれど、やっぱり、カッコいい、と思うところで終わってしまう。それ以上先に気持ちが動かないのだ。好き、というレベルまで、感情が揺れ動くということがない。
好きって、どういう気持ちなんだろう。それは、とても甘いものなのだろうか。とても優しい胸の高鳴りなのだろうか。
そんな中で、友人達に恋人ができはじめると、自然とわたしは焦るようになっていく。好きな人と付き合って、買い物をして、映画を見て、笑ったり、喧嘩をして。みんなはとても楽しそう。幸せそうだ。けれど、わたしにはそれがない。なんだか、ひとり取り残されてしまったようで、ひどく辛かった。もしかしたら、わたしは一生このままなのかもしれないとさえ思えた。誰かを好きになることもなく、ずっとずっとひとりで過ごしていくのかもしれない。
わたしは自分に自信がある方ではない。性格が良いとは思えないし、容姿がいい方ではなかったから。成績だってごく普通。これといった夢も持っていない。どこにでもいるような、つまらない人間だった。だから、わたしが誰かを好きになることがないように、誰かがわたしを好きになることはないだろうと考えていた。
教室の窓際の席で、毎日溜息を漏らす。気づけば、曇った空を眺めている。そんな毎日だった。そんなわたしを見かねてか、ある日、友人が、どうしたの、と声を掛けてきた。
「なんだか寂しそう」
黒澤さんというその子は、クラスの中でいちばん大人びていて、柔らかな笑顔が魅力的な子だった。年は同じなのに、彼女と会話をするとき、わたしはいつも、まるで先輩や年上の人と会話をしているような気分になる。不思議な子だった。
帰りに喫茶店に寄って行こう、と彼女に誘われた。わたしはそんなに寂しげに見えるのだろうかと、歩きながら考えた。
わたしは寂しいのだろうか。
寂しいと思ったことなんてなかった。家族にも友人にも恵まれていた。けれど、わたしの表情は、きっと、寂しいものなのだろう。喫茶店の窓ガラスに映る自分の顔を見ていると、なんとなくそう思える。
黒澤さんは聞き上手なのだろう。彼女と話をしていると、黙っているべきことや、些細な事柄ですら、なんだか話したくなってしまう。心の中に溜まっている淀みや晴れない鬱憤を吐き出したくなる。話を聞いて貰えるひとが目の前にいることは、ささやかな幸せに思える。わたしは、人を好きになったことがない、という話を彼女に零した。
「どうしたらいいと思う?」
「どうにかしなくちゃいけないの?」
「だって……」
「人を好きにならないといけない。そんなルールはどこにもないでしょう。それはそれで、別にいいと思う。そもそも、誰かを好きになるって、無理を通してまでして得る感情じゃないでしょう。そうやって人を好きになっても、それは相手に失礼なんじゃないかな」
「そうかな……」
「周りのみんなが色恋沙汰に夢中になって、取り残されていく気分はわかるけれど。そういう流行というか、流れみたいのに乗りたくて人を好きになりたいっていうのは恋の本来の目的とズレてるよ」
「それは、そうだけど」
けれど、わたしは納得できなかった。周囲の子たちのことなんてどうでもいい。わたしはただ、このままひとりでいるのが怖かった。それがいちばん強い気持ちだった。
「恋ってね、女にとっては一世一代の大勝負なんだから。少し古臭い考えだと思うけど」黒澤さんはちょっと笑った。「人を好きになることに、余計な考えが混じっていたら、それは駄目」
「寂しいから、人を好きになりたい、というのも、駄目ってこと?」
彼女は微笑んで頷いた。わたしは少し、俯く。なら、どうしたらこの寂しさ、いいようもない不安から逃れられるのだろうと考えた。
「人を好きになりたいのなら、自分を好きになりなさい」彼女はコーヒーのカップを口元に運びながら言う。「誰かを愛することって、自分を愛することなんだよ。自分のことを好きになれないのに、どうして他人のことを好きになれるのかしら? もっと、胸を張って、顎を上げて、視線をまっすぐ伸ばして、生きていくの。自分を愛して、好きになる。それが恋のはじまりなんだから」
俯いていたわたしは、少しだけ眼をあげて黒澤さんを見る。彼女は少し意地悪そうにわたしを睨んでいた。
その視線が、胸を張って、顎を上げて、自信を持て、と言っている。
自分のことを、好きになる。
それは、自信を持て、ということだろうか。
「まずは自分に恋をするの。自分を愛して、自分を好きになっていく。そうすると、どんどん他の人のいいところが見えて、世界が変わってくる。そうして、どんどん、他人が好きになっていく。もっとね、ナルシストに生きるべきなのよ、人間は」
それから、三年が経った。もちろん、こんなわたしだから、すぐに自分を好きになるなんて無理だった。可愛げもないし、勉強だってできないし、困難な壁には、すぐに挫けそうになる。
だから、せめて、自分を好きになろうと努力した。可愛い服を探して、化粧のテクニックを身につけて、髪型を変えて。たくさん勉強をして。すぐにあきらめないで、本当に倒れるまで、歩き続けるように。
嫌いなところを、一つ一つ、消しゴムでこするように、磨いていく。
あれから、三回、恋をした。もちろん、失恋もした。最初の一回は、男の子に告白をされたからだった。別に、その子のことが好きだったわけではないのだけれど、わたしは彼の言葉になんとなく頷いた。今では、それでよかったと思っている。
そうして彼と付き合っていく内に、わたしは彼の良いところに気づく。悪いところにも気づく。自分の長所と欠点を知るように。そうして、新たな発見をする度に、まるで長所を伸ばした自分を褒めてあげたくなるような気持ちに似て、彼を好きになる。
良いところも、悪いところも。
すべてを含めて、どんどん知って、それがなんだか自分のことのようにも感じて、そしてそれらを愛しく思う。
ああ、人を好きになるって、こういう気持ちなんだと、初めて知った。
人を好きになるって、知ることなんだ。その人の気持ちを、考えを、意見を、癖を、どんどん知って、胸いっぱいに吸収していくことなんだ。それは、決して受動的な感情ではなくて、とてもアクティブな想い。その人を知ろうとする。最後まで知り続けようとする。それが「好き」ということなのだ。
あれから、黒澤さんとこんな話をした。
「恋愛って、要するに試用期間なんだよ。試しに付き合ってみて、相手の良いところが見えたら、そこを好きになって、そうして愛していく。もしかしたら、お互い合わなくて、好きにはなれないかもしれない。そうしたら、試用期間は終了。次の恋へ、って感じに。ものは試しじゃないけれど、結局、人間の良いところって、実際に触れあわなければわからないんだよね。だから、何度も何度も、試用してみる。それが大事」
「黒澤さん、前に、恋愛は一世一代の大勝負って言ってたじゃないですか」
「そう。試用だからといって、手は抜かない。毎回が大勝負なんだよ」
今、わたしは鏡を見ている。唇にピンクの紅を引いて、ほんの少し微笑んで、自分の顔を見詰める。
今、わたしには好きな人がいる。愛している人がいる。
それと同時に、わたしはたまらなく、自分が好きだ。自分を、人を愛する気持ちを、誇りに思う。
それはきっと、恋が授けてくれた、唯一無二の自信なのだろうから。
*
ついでに言うと、主題というかネタは増田を眺めてて思いついた。また、書いたことと中の人の恋愛観は違う。
ブクマしてくれる人が地味に増えて、少しうれしい。増田はいいところだなぁ。
ブクマしてくれる人がいる限り、書き続けよう(とかいってネタ切れしそう/してくれるひとがいなくなる罠)。
追記
↑が、ブクマ狙いっぽく捉えられてしまうことに気付いた/指摘された。今では後悔している。
意図としては、「気に入ってくれた人が一人でもいるなら、書く気力が湧いてうれしい」というだけだ。
今では後悔している。