はてなキーワード: 感情移入とは
小林よしのりに感化されて軍拡マンセーしていた昔の俺みたいなオタクもいれば、
ヘルメットかぶってアキハバラ解放!とか叫んでたようなオタクだっている。
また、ガンオタでも作中で使われている技術や理論について語りたがる(エセ)理系オタクもいれば、
俺ニュータイプ論やシャア史を語りたがる(エセ)文系オタクだっている。
俺の身近なオタクにも、メンヘラさんやかまってちゃん、空気が著しく読めない奴(俺のことだけど)に、
陰謀論大好きさん、新興宗教ガチはまりさん……等、いろんなタイプがいて、
十把一絡げにオタクと言う分類わけをするのは難しいと思う。
だいたい元増田の言ってることなんて、どんな思想にも当てはまりそうなものだけどなぁ。
共産主義思想だってブルジョアジーを悪の枢軸に仕立て上げ(善悪二元論)、
搾取される労働者とやらに感情移入をして(感情移入と過度の思い入れ)、
歴史必然的にプロレタリア革命は起こると自身の暴力を正当化する(観念的空想、拗ね者意識、ルサンチマン)。
また、ヒトラーだってユダヤ人とその資本を絶対悪に仕立て上げ、
アーリア民族の優秀性を説いて、文化破壊者であるユダヤ人をぶっ潰せと喧伝したわけだ。
構図としては上の共産主義思想と大して変わらないんじゃないかなぁ?
これはべつにオタクじゃなくても当てはまるだろうという指摘があるとすればそれはその通りだが、ここで対象をオタクに限定したのは、筆者自身がいわゆるオタクであり、オタクのなかに見られる論理と心理について、ほかの集団のそれについてよりもよく見知っているという理由による。したがってここで例示したものは、あくまでそれがオタクにおいて比較的傾向的に強く見られるという筆者の観察に基づいている。
ってあるけど、俺が上に挙げたような点は、一般的に見られる普遍的な傾向であって(当時はみんな熱狂してたしね☆)、
”オタクにおいて”比較的傾向的に強くは見られるっていうのは違うんじゃないかと思う。
俺の私見では、現実の問題について語る素人が増えただけだと思うんだよね。
今まで政治問題なんてのは一部のインテリがどっか遠い場所で語るくらいだったのが、
インターネットの普及によって俺たち庶民にもそういうことを語る機会が生まれたわけだ。
で、そのインターネットにいち早く接触したのが、元来機械好きでリアル交友の少ない(笑)オタクたちだった。
オタクたちの遊び場であった匿名、あるいは非匿名の掲示板では時期的に偶然にも右翼タカ派の言説が多く、
彼らはそれに染まっただけだと思うんだ。
つまり”オタクだから”そういう考え方をしているのではなく、”たまたまオタクが”そういう考え方にいち早く染まったんじゃないかなーと。
※友人がオタクについて語った文章が面白かったので、許可を得て増田へ転載。
以下、友人の弁。
オタクが現実の問題について考えるとき・語るときに陥らないよう注意すべき点として、オタクのなかに強く見られる論理と心理の問題を以下に例示する。
これはべつにオタクじゃなくても当てはまるだろうという指摘があるとすればそれはその通りだが、ここで対象をオタクに限定したのは、筆者自身がいわゆるオタクであり、オタクのなかに見られる論理と心理について、ほかの集団のそれについてよりもよく見知っているという理由による。したがってここで例示したものは、あくまでそれがオタクにおいて比較的傾向的に強く見られるという筆者の観察に基づいている。
カッコイイズム
「カッコイイ」ものに対する素朴なあこがれと肯定の心理。ここで言う「カッコイイ」ものとは、たとえば、強さ、正義、純粋さなど、ヒーローものやロボットアニメなどに典型的に表されている価値観。こうした「カッコイイ」という観念は、具体的な作品を通して、実体的なものと結びついている場合が少なくない。典型的には武器・兵器との結びつき。強さへのあこがれと肯定が武器・兵器へのあこがれと肯定になって表れる。とくに男性オタクの場合、幼少期の経験によって、こうした素朴な心理がほとんど所与のものとなっている場合が多い。
こうした心理が現実の問題に適用された場合、非妥協的で一方的な強硬論の主張として表現されることになる(ヒーローはその純粋さと強さでもって有無を言わさず正義を実現する!)。たとえば、オタクが対北朝鮮問題について一方的な強硬論を唱えたり、日本の安全保障について軍拡論(さらには核武装論)を唱えたりする場合、その中には素朴なカッコイイズムの心理(しかも軍事力と結びついた軍事カッコイイズム)が混入していることが少なくない。もっと穏やかな形では、「あんなヤツやっつけちゃえよ」といった言説。自分だけの単純・素朴な心理(しかもしばしば暴力と結びついている)だけでもって複雑な現実を捉え解決しようとする点で非常に問題。
善悪二元論……敵の悪魔化と味方の無謬化
正義と悪の戦いというものの見方。典型的なヒーローものの論理。
敵=悪玉の論理。相手が何か一つでも悪事をはたらけば、事の大小も問わず、責任の限界も取り払って、相手を邪知暴虐な悪の枢軸にしてしまう。相手のすべての行動が邪悪な行動とされ、相手は邪悪なことなら何でも企みうるし、なし得るとされる。敵の悪魔化・万能化。行動が悪なのは人格が悪だからという論理、悪の人格からは悪の行動しか出てこないという論理。さらには、その悪に関係する人、組織、集団や、悪を擁護するものも一律に悪とされる。悪の肥大化。
これと対照的な形で善玉の論理が出てくる。上記のような巨悪を批判・非難する側はつねに正義であり、悪を殲滅するまで徹底的に攻撃を加えるべきだとする論理。結果として、邪知暴虐な悪との対決にはあらゆる手段が用いられ、往々にして敵よりも残酷で非道な手段を用いることも少なくないが、そうした手段は目的の「正しさ」によって正当化される。敵が悪魔化されたのとは対照的に、味方は無謬化される。宗教戦争に典型的に見られる正戦論の論理。
こうした論理が現実に適用されている例は枚挙にいとまがない。犯罪者バッシング、不祥事バッシングのほとんどがこうした論理によって展開されている。
現実はもっと複雑であり、善悪二元論で割り切れるものではないということ。善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるわけではなく、しばしばその逆であるということ。仮に犯罪や不祥事があったとしても、その事実をありのままに観察して論じること。特定の人格、集団、組織にすべての悪を引き受けさせるのは現実的なものの見方ではない。悪をなした側には悪をなした側なりの論理や心理がありうる(一応、オタク文化にもそうした側面に配慮した例外的な作品はある。『逆シャア』など)。単に人格的なレヴェルの問題だけでなく、構造的なレヴェルでの問題を見ること。そうした現実の複雑さに耐えきれず、問題を最初からすべて善悪二元論の鋳型に流し込んでしまうのは、宗教家かデマゴーグの方法。
問題の人格化
肯定・否定問わず、あらゆる対象を大小さまざまに人格化・キャラ化する論理。
これが現実に適用されると、典型的には民族や国家を人格化するようなことが起こる。さいきんでは『ヘタリア』の例。人格化された対象はある一定の本質を持っているように描かれ、ステレオタイプが促進される。
さらに、人格化された対象が実在の特定人格と結びつく傾向もある。たとえば、日韓関係が小泉vs盧武鉉のような形で著しく人格化されて語られた。これを歴史観に反映すると特定の人物に歴史を仮託した英雄史観になり、現実政治に適用された場合には指導者待望論につながる。
感情移入と過度の思い入れ
対象へ感情的・感傷的に没入する。対象と一体化した共感・同情。惚れた状態。マイナス面が見えなくなる。あばたもえくぼ。
現実に適用された例としては、拉致被害者家族会に対する感情移入。「被害者家族はこんなにかわいそうなのに、どうして北朝鮮に譲歩するのだ」という主張。共感・同情・思い入れが唯一の原理になる。没入対象が民族や国家などの場合は排外的ナショナリズムになる。
主観主義・心情主義
主観的心情と客観的現実とを同一視。あるいは、客観的現実を無視。
典型的な形態としては精神論。あきらめず努力すれば必ず夢は叶うという心情(ジャンプ的な少年マンガにも、少女マンガにも共通した心理)。
観念的空想
観念的な空想をもとに話をしてしまう傾向。「あれは??に違いない」「これは??なのではないか」という、根拠の薄い空想や概念操作を前提として議論を展開する。
オタク的な想像力の源泉とも言えるが、現実の問題に適用された場合、「どうせ??だろう」といった非現実的な憶測・陰謀論や、「もしかしたら??かもしれない」といった希望的観測にしかならない。
拗ね者意識、ルサンチマン
オタクがなお社会的弱者であるという現実から引き起こされる心理。潜在的にせよ顕在的にせよ、自分が疎外されているという意識。
こうした疎外感や拗ね者意識はオタク文化が閉鎖的土壌のもとで独自に発展する要因ともなったが、関心が外の現実に向けられた場合、マジョリティ・メインストリーム・既得権益、さらにはほかの社会的弱者に対する引きずり降ろしの心理がはたらく。
また、社会的弱者であることを一種の免罪符としてあらゆる粗暴が肯定され(被抑圧状態の復讐)、ひとしきり気分よく暴れることで欲求不満を一時的に解消しようとする。
「正しさ」信仰による偏向
どこまでも「正しい事実」を追求する態度。オタク文化の創作物のなかには「正しい公式設定」が存在しうるし、作品解釈をめぐってはそうした(しばしば枝葉末節に渡るほどの)「正しさ」が重要な論点となる場合がある。オタクのパラノイア的側面。
しかし、現実世界においては「正しい公式設定」は存在しない。正しい見方、正しい歴史、正しい勢力は存在しない。あらゆることが論争の対象。「正しさ」だけをもって現実を語ることはできない。政府の「公式見解」が時として「正しい事実」に反することには異議を唱えなければならないが、一方でそれが時として「事実上」(de facto)通用するという現実の意味も認めなければならない。現実の複雑で多様な側面に目を配る必要。一方だけの「正しい」主張しか知らないのはいかにも中途半端で偏向している。
中道、無関心への逃避
積極的な主張をするのではなく、むしろ中道や無関心を言うことで、現実の多様性とそこから要請される態度決定を忌避しようとする心理。「人それぞれ」という底なしの相対主義もこの系列。
しかし中道や無関心も歴然とした1つの立場である。これを認識することが肝要。むしろこうした無自覚な中道派や無関心派は、普段から積極的に態度決定する訓練をしていないだけに、イザというとき冷静な判断ができないおそれがある。
議論ずらしと無責任
「ネタ」「ベタ」「メタ」という形で議論のレヴェルをずらす傾向。オタクのスキゾ的側面。
空想や観念の世界に思いをめぐらす議論ならともかく、現実について考える・論じるときにこれをやると、とんでもない無責任な方言、責任回避になる。
とくにネットのような場所では、万人が非常に気軽に意見表明できると同時に、その影響範囲はきわめて広範囲に及ぶ可能性があり、責任は思いのほか重大。他者に責任を転嫁したり、「ネタだから」などとごまかすくらいならば、意見表明などしないほうがよい。
※投稿者としてはこの主張全てに同意するわけではないのだけど(例えば、一口に「オタク」と言っても、北朝鮮への一方的な強硬論や核武装を訴えるような軍オタにはそうそうお目に掛かれない)、こういう傾向は確かにあるかもしれないと感じる。これを見ているオタクの増田諸兄はどう思われるでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1145826.html
加藤の発言、そんなに酷いものかねえ。
あたしはあの当時、当然のように帰すものと思っていたし、約束を反故にして帰さないとなったとき、これで拉致問題は永遠に解決しないって事で「終わった」と思いました。
結局、日本の外交には戦略も何もなくって、ピンポンダッシュみたいに5人だけ取り返して喜んで、あとの事はしらねーや、みたいな次元なのかってね。でもねえ、その時点で上手い戦略がなかったとしても、「交渉」自体に継続の可能性を残した状態で収拾するのは、戦略のない場合に取れる最善の戦略であるはずでさー、そりゃあ、帰してたらその判断の責任者は袋叩きでしょうけども、時には泥をかぶるのがあなたの仕事なんじゃ?
あっ、あと、みんながみんな、なんで拉致被害者の人にそんなに感情移入できるのか、わからないんだよなー。テレビ見ないからかなー。
確か大宰治が
とか言ってたかな。
自分は基本日経中心なんで
事件は小さめ産業発展大きめ、と
結構楽しんでる。
友人は「ムズい」って言うけどね…
「理解できない」って声より同情的(とも言い切れないが)な声の方が大きいのも、どこかしら感情移入してしまうところがあるんだろう。
似たような人がこれだけたくさんいるってのが恐ろしい。
「胸がすっとする」みたいなこと言ってる奴がいるのも恐ろしい。
http://anond.hatelabo.jp/20080611095742だからじゃね?
「理解できない」って声より同情的(とも言い切れないが)な声の方が大きいのも、どこかしら感情移入してしまうところがあるんだろう。
同意。
でも人間が一番興味があるのは、生と死じゃねーの。究極的には。
>そういうことに無自覚で、知り合いでも何でもない人が「ご冥福をお祈りします」と言う。こういうの大嫌いだ。そうやって「被害者、遺族に感情移入できる自分」を気取ってればいいと思う。
こんな事件俺には関係無いのでどうでもいいです。秋葉原にはたまに行くけど、知り合いが被害にあってない。だから関係ない。毎日人が死んでるのにいちいち感傷的になってられない。それにノンフィクション(事件、ニュース…)よりフィクションのほうが楽しい。ノンフィクションに感情移入なんてしないよ。ただの事実でしかない。歴史の教科書読んで涙する奴なんてほとんどいないでしょ。
今VIPでは祭になってるけど、事件が秋葉原じゃない、他の事件は大した祭にならない。秋葉原だから祭になるなんて人間らしさがよくでてますね。自分と関係あれば感情移入するけど、関係なければ感情移入しない。これが普通だと思う。イラク人が何人死んだって日本人はなんとも思わないでしょ。
そういうことに無自覚で、知り合いでも何でもない人が「ご冥福をお祈りします」と言う。こういうの大嫌いだ。そうやって「被害者、遺族に感情移入できる自分」を気取ってればいいと思う。
でもそういうのが平和を生む。比率的に殺人を憎む人が多ければ多いほど殺人は起きない。日本の教育はよく出来てるよ。ほんと。もちろん教育だけじゃないけどさ。まあ、嫌いだけどこういう人たちは必要だ。腹が立つけど平和なのには勝てないしね。
今年に入ってはじめて話しかけた
去年も一緒の授業でしたよね??、名前聞く、今年もよろしく。みたいな
結局それっきりで、すれ違っても会釈とかは全然せず一月くらい
こないだ休んでたときの授業の内容聞いたら教えてくれた
そもそもあの子が他の女子とかと一緒にいたりするとまず話しかけられない
授業中とか暇さえあればあの子見てる
される方としてはかなり気持ち悪い状況なので(一回話しただけの人がずっとこっち見てる、でも話しかけては来ない、なんか視線が普通じゃない、でも何をされたってわけでもないので、あからさまに避けるわけにもいかないし、友達に愚痴るわけにもいかない・・・・もやもやもやもや・・・・)、その状況を続けてると「好きでも嫌いでもない人→気持ち悪い!生理的に受け付けない!」になるのはあっという間なので、ぜひ話しかけて白黒付ける機会を与えてあげて欲しいなー。と彼女の側に感情移入してしまった増田からの意見でした。
中学生時代、いじめられていた頃の事を思い出した。侮辱や嘘が飛び交い、関係のないその場に居合わせていた同級生も「何事か」と注目をする。「学校の物を盗んだ」だとか「教師しか見てはいけない書類を勝手に覗いていた」などと僕がまるで卑劣な行為に走りそれを目撃したかのように触れ回る。「嘘だ、やってない」しかしそう訴えても悪魔の証明に敵うはずもない。騒ぎが起こって暫くしてから、おかしな雰囲気が立ち込めてくる。
確かに根暗で友達のいない僕には弁護してくれる人も存在せず、皆は『あいつが言われているんだから言われて当たり前』だと思っていただろう、そしてできれば関わりたくないからこのまま何事もなく収束する事を願っていたに違いない。その場にいた同級生の半分がこちらを疑視する中、構わず自分達の話を進行させる人もいた。しかしどんどん騒ぎが大きくなってくる。僕を攻める一人の、クラス中に訴えかける大きな声に巻き込まれ止むを得ずといった感じで全員がこちらに顔を向ける。数人が僕に寄って集って言い攻めるその様は明らかに僕への注意以上の攻撃が含まれていて、『その中にはもしかしたら虚偽や侮辱が含まれているかもしれない、でもだからと言ってあんな奴を弁護するのも気が引ける』とでも言いたげな哀れなものを見る様な目線が僕を囲む。それでも相手の口からは躊躇いもなく悪意の篭った暴言が僕に向かって吐かれる。僕は耐えられなくなり目に涙を浮かべながら教室から逃走した。
あの光景は今でも鮮明に思い出すことができる。被害妄想なしに書くと、自分といじめを行っているグループしか居なかった空間に急に他人が『傍観者』という具合で割り込んでくる。そしてその『傍観者』には悪意はないかもしれない、それどころか全く悪意などなく寧ろ善意との狭間でどう行動すれば良いか戸惑っている人もいるかもしれない。しかし僕には、その空間に入っただけの傍観者に対しては『見方かそれ以外か』しか判断ができず、見ているだけで何も言わない傍観者も含めた『見方以外』が増えた事に耐えられなくなる。
よく『いじめは見てみぬ振りした人間も加害者だ』と言う人間がいる。僕はそこまで乱暴には考えないけど、加害者と被害者しか居なかった空間に急に割り込んでくるのはやめてほしい。自分がいじめられているという哀れな姿は、誰にも見られたくないからだ。無視できないという自信がないなら、いじめを止める事ができないと分かっているのならどこかへ去ってほしい。加害者でない人間から哀れな目線で見られる事もダメージになり得るし、それが強烈なものになると居た堪れなくなってしまう。
ところでその時の僕は泣いてしまったわけだが、泣くという行為は自分の直面しているその事態に対して感情移入しているに他ならない。下らない事に感情移入した挙句自分が哀れな目線で見られていると思ってしまったわけだ。くだらない事で泣いてしまった自分にも非がある。もしかしたら重要なのは耐える事ではなく馬鹿馬鹿しく下らない事態に直面しても感情移入せず常に冷静さを保つ事なのかもしれない。
ちなみに僕はあの時から今まで4年以上引きこもりをしている。
生まれて初めて、人と口をくっつけた。
口と口が触れた。
自分の口で、人の口に触れるなんて、私史上、もうそれはありったけなことだった。
ありったけ。
小学生に「おばさん、ボール取ってください」と呼ばれた狂おしい春の桜が、
こざっぱり散りきった4月の25日。
そのおばさんは、初めてキスをしたよ。
ホームランが飛んでいく音が、した気がした。かも。
そりゃね、かっとばすよ。
私はおばさん。
投票所には10回以上足を運んだことがあるし、
所得税もがっぽり取られるイイ年頃で、
suicaなんかもピッてやって、優雅に改札を抜けてる堂々たる社会人で、
とっくの遠い昔の、教科書とか体育とか文化祭とか、そういうものに紛れながら経験して然るべきで、
こんな今頃、年金とか後期高齢者医療制度とかガソリン税がひしめき合う中で、
転がってきたら、初めてのレモン。
オーロラも孫の顔も見ずに、死ぬんだと思ってた。
この年まで見なかったものは、きっと十年たっても二十年たっても、見ないで生きていくんだと思ってた。
でも、苦しくなかった。
キスなんて、もう、分かってたから。
うん千っていう少女漫画を読んできたし、
少々の小説も楽しんだ。
口付けという口付けが、そこには描かれていて、
私はその大体に感情移入して、何度も何度も夢中でしてきた。
このキスは、逆に悲しいな。って苦味も知ってる。
キスの時はあれでしょ、少し顔を曲げたりすんでしょ。どーせ。
散々見てきたっつーの、キスシーン。
ってね、思ってたのね。
びっくりした。全然違うんだもの。
私、本当にたくさん見たのよ、キスシーン。
でも、全然違うのね。
本当に当たり前のことなんだけど、
キスの時って目をつぶるから、自分のキスシーンは何も見えないんだね。
私がキスしてるところなんて、私にはわからないんだね。
私史上、一番の名場面は、真っ暗でした。
マスコットがキモいからと見た目のかわいい別のマスコットを創り出すという
その別のマスコット候補の選定は着々と進んでいる
そのうち名前も公募するのかな?
でもなんかアレだよね
俺は、マスコットだってみんなで育てていけばいいんだと思うんだよ
マスコットだからと言って、名前まで決められたものを見た目で全否定するのってなんかすごくイヤだ
みんなで寄ってたかって醜いマスコットを殺そうとしているように感じるんだよ
ある種のおぞましさを感じるんだ
なんというか、教育上ものすごくよろしくないような気がするんだよ
「子どもが怖いと泣くんです」って、なぜ見た目で判断しちゃダメだよって言えないんだい?
そんなこと言ったらマスコットが悲しむよって言えないんだい?
マスコットだって生きている
そういう情緒教育が理想なんじゃなかったのかい?
そこで行われていたこととなんら変わらないような気がするんだ
もちろん選考過程が問題だからとマスコット自体を殺す必要も無いよね
それは全然別の問題だし
幼い子を持つ親として、小さな命に対する倫理的な視点と子どもに対する教育的な視点でもって感じたことを率直に書いてみた
・・・って、やっぱり自分は考えすぎというか感情移入しすぎか??
別に自分はせんとくんがめちゃめちゃ好きってことは無いよ
増田が味わった気持ち、よくわかる気がするよ。
自分もここ数年そんな感じが続いていて、どうしたってナーバスにならざるを得ないような事件が多く報道されるので
新聞やニュースは極力読まない/見ないようになった。自分の精神状態がそっちに引き摺られてしまうから。
よく知りもしない人間に向かって言うべきことじゃないんだが、増田は今精神的に少し疲れているんじゃないかな。
増田が遭遇したような嫌な出来事に遭遇した時の心理的反応として通常ポピュラーなのは多分軽い怒りや憤りで、
悲しみを感じるにしても度を越した物じゃないと思うんだけど、精神的に疲労していると過剰に感情移入して
しまったりして影響を受けやすいんじゃないだろうか。
うまく言えないけど、死ぬなよ。連休も近いし、少しでも休養が取れればいいね。
俺は割と神視点でプレイするんで主人公に感情移入とかしないでカップルがいちゃついてるとこみてニヤニヤしたいのでエロシーン描写はあって欲しい。
いちゃこきシーンってわざわざ「エロシーン」にする必要なくない?
朝チュンでもいちゃいちゃできるじゃん。
評判の良いever17をいつかやりたいと思いつつ、エロゲーじゃないからという理由でいつまでも手を出す気にならない俺みたいなのと不要派は永遠に分かり合えないのかも知れんな。
セクロスシーンはあったけど、 抱きしめ合い→ …省略… →「…さて、行為は終わって本筋だが…」って感じだったな。
トラバツリーにも似たような事書いてあるけどさ、エロシーンってすごく冗長。
文体も急にしつっこくなるし、ストーリーの展開が大幅に減速してテンポ悪くなるわ、で萎える。
こちら側で早送りをしなきゃいけないから、めんどくさいし。
その辺はライターの技量の問題だろう。文体しつっこくなるとかは特に。
エロシーンも自然に書きつつ、性欲を適度に刺激しつつ、しかもストーリー上関係あるような会話とかも交えつつとかうまく描いてくれればベストだとは思う。
評価の高い一般小説でもエロシーン書いてるの割とあるじゃん。そんな感じで。
俺は割と神視点でプレイするんで主人公に感情移入とかしないでカップルがいちゃついてるとこみてニヤニヤしたいのでエロシーン描写はあって欲しい。
評判の良いever17をいつかやりたいと思いつつ、エロゲーじゃないからという理由でいつまでも手を出す気にならない俺みたいなのと不要派は永遠に分かり合えないのかも知れんな。
地上波でやったし、もうネタバレしても問題ないと思うけど、一応アナウンス。
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ファンタジックでハッピーエンドな作品だってことは知ってた。でも、こんな形だったなんて。
ウォンカみたいな生き方してきた俺には、見てて辛かった。
ウォンカが「両親」って言葉を使うときに言いよどむのもよく理解できる。
ウォンカが「辛いとき癒してくれるのは?」って聞いて、チャーリーが「家族」って即答したとき、ウォンカが「グッ」っと言葉に詰まったような表情するシーンも我が事のように見た。
俺もうつ病患ってて、しかも親には頼れないから……
俺もいつか家族と和解できる日が来るんだろうか。今は、それが信じられない。
ウォンカに感情移入してたのに、「家族なかよく暮らしましたとさ、めでたしめでたし」というラストには疎外感を感じてしまった。
「ビッグ・フィッシュ」の時には「ホラ吹きのお父さんっていいじゃん、なんで許せないの?」と思ったので、同じ「親子の和解」でも、ふつうの物語として見られた。
けど、俺の親はウォンカの父親と同じ、「あれをしろ、これをするな」というタイプ。「子供を守ろうとしている」と解釈するのは俺にはとても無理だ。
いつか、俺にも親を許せる日が来るんだろうか。
http://www.tinami.com/x/interview/10/page1.htmlの解釈から考えると、
厨房→セックスに対する敷居が高く、やがて入っていくべき性の世界の前哨戦というか露払いとして消費する世代
熟女→セックスに対して主体的になれずエクスキューズを必要とする世代
なのかなあとか。真ん中ががさっと抜けているのは割と主体的にセックスできる世代だからでは。
どっちにしても相手はイケメンだとか王子様属性を持ってるとか基本的には不快感を感じさせない魅力的な相手で(←ここ重要)、読む方はヤラれる方に感情移入してるんじゃないかな。ヤル方の征服欲とか万能感に共感している印象はあまりない。もっとも、ヤラれる方はヤラれる方で、カラダを使って相手を落としてやったという征服欲とか万能感とか持っているのかもしれないが。
男向けのレイプものAVではそういう女の色香に迷ってつい襲ってしまったというエクスキューズはないように思うがどうだろう。そういうのは熟女とか痴女ものの領域な気がする。
ちょっとこの言葉だけに捉われ過ぎてないか?
俺も見ていて絵空事的世界観(SF部分についてじゃないよ)だなと思ったが、もうそれは前提条件なんだと思う。
そこまでの生々しさやディティールによる共感ってのは制作側も狙ってないと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20080109114836
当時は、膝下スカート(紺プリーツ限定。チェック柄でこれしてる人間を見たことない)+オーバーサイズのカーデに、ルーズ+スニーカーか
これマジ?
俺が高校生だったの10年位前だけど当時男でも女でも制服でスニーカー履いてるのって所謂ダサい奴らか、もしくは正統派から外れたお洒落を狙ってる奴だけだったよ。
ここ数年長いのが流行。
もちろん膝上十数センチの子もたくさんいるけど、スカート膝下カーディガンもシャツもオーバーサイズ気味でぞろりと着るみたいなのが多くなっていると思っていたが、どうもこれは関西限定らしい。
正月のテレビでゆーてたが、神戸あたりのお嬢様学校が元らしいです。
時かけアニメ版映画の主人公真琴の着ていたのが紺ミニスカート+白ポロシャツ裾だし+紺ハイソックスだったんですが、上映始まってしばらく時代設定がわからんかったんです。
同級生とかがでると、今風の女子高生スタイルなので10年前とかが舞台ではないということがやっとわかりました。
一緒にみていた女性も同じようなことを感じたそうです。
彼女の男友達で、重要な役割を果たしている千昭と功介がシャツの前を開けて中の色の付いたTシャツを見せるという格好だったので余計わからなかったんですね。
細田監督はこの映画を主人公と同じ世代の子たちに感情移入して好きになってもらいたいとどこかで語っていました。
監督がみてほしいと思っている女の子たちっていうのは今も昔もそのあたりすごく敏感で、制服の着方とか選び方でそのひとがどういうキャラなのかということを細かく感じ取るんですね。
そして自分との共通点を見つけ、親近感を覚えて共感するんです。
真琴の制服姿ってたぶん普遍性があるというか、5年後10年後にみてもそんなに古くさく見えないと思います。
でもぜんぜん「今」じゃない。