はてなキーワード: 出家とは
いいアイデアだと思う。ぜひそうしてくれ。
それ俺じゃねーし
俺どちらかというと少しでもおしゃれすると異性(男)から「何お前wwwブスが何やってんのwwww」「きめぇwwww鏡見てこいよwwwwwwwwwうけるwwwwwwwww」「出家する前最後にあそんでみたくなったの?wwwwwwwwwwww」的なこと言われるタイプで同性にはかばわれるんだが、それでもその増田が言うことはそんなに変ではないと思う。
女の場合化粧ですら結構ハードルが高くて薄い化粧してても言われる時は言われるしな。努力しなくて「何それwww努力しても無駄ですからwwwwwwww」攻撃を避けるためには風呂入らないレベルにまで自分を落とさなきゃいけないわけですよ。そして諦めきった人の中には時々そういう人がいて、そこまで珍しい話でもない。容姿に関しては女のほうがシビアだし差異に敏感だし、すこしでもカーストを破ろうとすれば異性もしくは同性(どちらかかどちらもかはひとによる)からひどく叩かれるんだぜ。それでも俺たちはせめて風呂に入れる生活を守るためにあきらめないんだぜ。カーストの最下位に落ちないように笑顔を作るんだぜ、ダイエットするんだぜ、髪の毛の手入れをするんだぜ。それだけでもいいからすることで雰囲気を変え印象を変え、いつかはカーストから解き放たれようと日々闘っているんだぜ。だから生まれ持った造形以外の要素が付与されるならウェルカムなんだぜ。たとえそれがマイナス点であるにせよ、その点を改善すればプラス点もしくは0に戻すことはできるんだからな。ポジティブ思考にでもなっとかないとぶすかぎょうはつとまらないんだZEEEEEEEEE!!!!
なんか色々しんどくなった。すまん。寝る。
男も女も「合わない」だとか「一人がいい」とか言って一人飯だったり、サークル無所属。
女でも彼氏が出来て、彼氏とべったりしてたら女友達とは疎遠になって結局一人同然とか。
お前ら何してるんだと。
大学は学問を学ぶ場ではあるけど、同時に人間関係の修行場でもあるんじゃないのか。
大学って下手に一人でも過ごせるからそうしちゃうんだろうけどさ。
それは人生を投げている行為であると知れ。
友達いない奴はこの先就職でもなんでもうまくいかない。
自分の可能性の全てを「他人と関わること」から逃げたために全部潰したのだから。
実に愚かな行為だ。
変に傷つきやすい痛い子といい、ぼっち学生といい、
それでいて将来は「やりたいこと(だいたい漠然としたもの)」があるだとか、
もっと近いところで言えば、成績が心配だとか。
身の程知らずのいい子ちゃんが多すぎる。
こういう心がけは、この逆の(知りたがり・あきらめが悪い・捨てられない)タイプの人、特に、気をつけないと過度に「こうでなきゃいけない」となりがちな人がたまに意識して、適度に気を抜くことができるようになったらいいね。
「楽に生きる」ことは「楽しく生きる」とほぼ重なると個人的には思っているよ。
仙人みたいに生きてみたいが、今の私はまだ知りたがりすぎるし欲しがりすぎてる。まだやらなきゃいけないことがあるから当分無理だけど、いつか世の中に惑わされないようになりたいなあ。出家でもしたらいいんだろうか?
最初に言っておくが、私はなんら仏教に関係ないし信者でもない。ましてやキリスト教、イスラム教、新興宗教にも全く興味が無い。ただ仏教の哲学には納得する部分が多いし人生の参考になるので簡単にまとめたいと思う。だから全く興味がない人や食わず嫌いの人に触りだけでもかじって欲しいと思い書きます。
そもそも現代の人は私を含めて宗教と聞くと胡散臭いや洗脳など怪しいイメージが強いから拒否反応が自動的に働くと思います。しかし、そういうイメージがついたのは仏教やキリスト教を適当に模写し都合の良いように作りあげた新興宗教やカルト教団のことを言います。例えばオウム真理教なんか日本代表である!つまり、仏教は胡散臭くも無く怪しくも無いブッタが一生をかけて考え抜いた精神世界の教えです。
ちなみに私は仏教本に関して、自己啓発本の一種としか考えていません。つまり仏教本を読めばモチベーションが向上する。ただそれだけです。しかし、知っているのと知らないとではこれからの人生の生き方や価値観は大違いだと思います。後、仏教と聞いて、お経なり墓参りや、お坊さんやお葬式など思い浮かぶと思うが、面白くないので触れません。私が興味あるのはブッタという哲学者が考えた知識です。
できるだけ専門用語は使わずまとめていきたいと思います。まず仏教といえば仏(ほとけ)様がイメージできますが、決して仏像の仏ではありません。では仏とは何かというと、悟った者のことを示します。
仏=ブッダ
ブッダとは「ブッダ」という名前ではなく悟った人のことを言います。それで「悟る」とはサンスクリット語でブッドゥッといい、その過去分詞がブッダ、つまり悟った人なのですね。とりあえず、ふんふんと頷いといて下さいwでは仏教を始めた人は誰か?ブッダと呼ばれるものは誰か?
「ゴータマ・シッダールタ」 この人がブッダであります。ちなみに仏教はインドから広まったものです。これで分かるように仏は神みたいな絶対的存在ではなく、ただの人間であり、ゴータマ・シッダールタという悟りを極めた哲学者であります。この人の生きた時期は具体的には分かっていません。なぜならその当時のインド人に「いつ」の概念がなかったからなのです。だいたい紀元前5世紀くらいの人と言われていて、生まれた場所はルンビニーという所。裕福な生活をしていて結婚して男児もいて普通の生活をしていました。しかし、29歳のときに家族を捨てて城から離れ修行者として旅立つことに。つまり出家ですね。それから苦行を続け、やがてナイランジャナーの河のほとりで瞑想を開始します。そして、35歳で悟ったと言います。それからたくさんの弟子をかかえて享年80歳という長命で姿を消すことになります。それで亡くなってから、当時の弟子たちがブッダの教えで会議を行い文章として作ったのが「経典」であります。
まず仏教のキーワードは「縁起」”えんぎ”。 是非この言葉だけは覚えて欲しいと思います。
「縁起」とは人や事柄などが関係しあってお互いを支えていることを言います。例えば、ここに40歳の男性がいるとします。彼は妻にとっては夫であり、子から見れば父、彼の親からすれば子である。会社にいけば彼は課長であり、オーナーから見れば従業員である。つまり、自分の存在とは情報によって作り出されたものであり、あなた自身多くの人々の関係、周囲にあるあらゆる物との関係において、今のあなた自身でいることができる。だから、最初からあなた自身が存在しているのではなく名前という情報があり、住所という情報があり、職業などがあってこそ自分がなりたつ。つまり、他人が自分の存在を示してくれる。逆にいうとあなた自身も周りを支えていることになる。こういう関係性を仏教では「縁」と呼びます。
もうひとつ知ってほしいのは<「空」”くう”です。
「空」とはそこに見えてるものは実体がないと考えます。ちょっとややこしいが、普通は実体があるからこそ人やものが存在していると考える。しかし、仏教では現象にすぎないと考えます。簡単にいえば全て幻と考え、起きることや物、人生、人すら実体のない幻と解釈してしまう。バカらしいと思うかもしれないが、ちょっと待ってほしい。例えばテレビ画面やパソコンの画面、映画のスクリーンを近くでよーく見てみると、小さい四角や丸の集合体であることは知ってますよね、知らない人はテレビ画面におデコをつけて見てほしい。すると小さいドットが繋がっている状態でひとつひとつがいろんな色に点滅しているただの光の集合体というのが分かります。つまり実体のない幻といえる。物や人も素粒子レベルで考えると、点滅しているにすぎない、だからあなたも私も幻と考えることができるということなのです。ちょっと分かりずらいが、「空」とはすべてが現象と考えると分かりやすいと思います。
もうひとつ例えを出します。皆様は普段から牛肉を食べますよね。これって食べた後にどうなるか知っていますか?そもそも、食べるものとは”アミノ酸”だとか””コラーゲン”みたいに色々な分子が集合してできているのが食物で、それを体内に入れた時に分子に分裂して体中に分子が散ればめられてたんぱく質に変わり栄養として吸収され破壊されて行くのですが、ここで問題なのが牛肉は牛であり、人間と同等の生物ということです。具体的に言いますと、牛肉は分子の集合体ですよね、ということは、牛も集合体ということになり、故に、人間も分子や原子の集合体ということになるのです。、だから、人間も実体がなく現象であり「空」であるというのが仏教という哲学なのです。
ちょっと分からなくなってきたと思いますが、この2つセットが仏教の基本なので、先入観を少し置いといてこういう考え方もあると思ってくれれば結構です。補足ですが、瞑想と言う言葉を聞いたことありますよね、洞窟の中とか誰もいない森の中で永遠瞑想という修行をする人たちのことですが。なぜ、できるかというと全てが幻と思っているからです。どこにいようとも何をしようといいというわけです。これが究極の空です。
ちょっと話がそれますが、巷では占い師の方が「あなたの前世は武士」だとか、死ねば生まれ変わるだの言われることがありますが、仏教では輪廻転生はないと考えているし来世も前世も存在しない、自我も空だと考えています。つまり、体がなくなっても魂は来世に蘇り繰り返すという概念はありえない(正式には分からない)しかし、一部では霊がいるとか神がいるとか、輪廻するとかいうのが信じられています。まあ信じる分だけならいいのですが、それに付け加えて出てくる概念が、この世で苦しめば苦しむほど来世でランク(ステージ)が上がるという考え方です。インドのカースト制度がこれ、ランク(ステージ)の低い身分の人はこの世で自分を苦しめ相手も苦しめることを現実にします。つまり問題なのは現世で苦しめば来世でランクが上がるという概念が怖いのです。
例えば、電車の中で騒いでいる若者がいたとする、こいつは人に迷惑をかけていてこのままでは来世でランク(ステージ)が下がるのでかわいそうと思い、早い段階で苦しめて殺しちゃえという考え方になり、ナイフで刺してぐりぐり苦しめて殺してしまう。この考え方がオウム真理教の「ポアの思想」。
もうひとつ例えれば、映画館で隣の男性がポップコーンをボリボリ食べていて人に迷惑をかけているとする。すると、前にも言ったがそういう人は現世で苦しめて殺してあげる、そして「来世でランク(ステージ)を上げて楽しく暮らしてね。」って感じで平気で人をナイフでぐりぐりして殺してしまう。刺されている人が「痛いよ!」って言っても刺してる側は全てが「空」だと思っているから、「この世には実体がない幻なんだから痛くないでしょ、何言ってるの」ってなる。これがオウムの「ポアの思想」で宗教を悪いことに利用したスピリチュアルな考え方です。
怖い考え方のキーワードは3つ
現在テレビで人気の○木数子はかわいいもので彼女はただのオカルト。怖いのはスピリチュアルの○原氏。輪廻とランクがありきと考え、しかも視聴率が良い番組で堂々とわけの分からないことを言っているので、このままいくとオウムみたいになりかねないと私は危惧します。
話を戻しますが、人間には煩悩がたくさんあります。代表的なのでは睡眠欲、食欲、性欲、物欲、などなど、これらの煩悩をなくしてしまうのが悟り、つまり全てが空と考える概念を「空観」”くうがん”といいます。その逆が「仮観」”けがん”。仮観は煩悩むき出しでお金も稼ぐだけ稼ぐし、あれも欲しいこれも欲しい、その為には戦争もする考え方。みんなが仮観の考えでは世界は滅びます。逆に「空観」もみんなが考えるとやる気もないし何もしない、食欲もないし睡眠欲もないからこれも世界が滅びます。
じゃあどうするの?
そこで仏教ではその間の「中観」”ちゅうがん”という概念が存在します。では「中観」とは何か。まず全員が「仮観」の考えかたをすると欲望を限度なく追求するから結局戦争になり人類が滅びます。次に全員が「空観」の考え方だと全てが幻と思っているからボケーっとして誰にも迷惑かけないけど何も進歩しないからこれも滅亡する。しかも「空観」にカルマの思想が入ると他人に迷惑をかける最悪のことになります。
それではダメなので昔に「中観」という概念を考えたナーガールジュナという人がいます。「空観」と「仮観」の間の「中観」。さっきの例で言うと、ポップコーンを食べている人はボリボリと人に迷惑をかけているが、その男性は彼女と映画を見にきていて彼女と楽しむことや、彼女を楽しませるなどやること、役割ががあると考えます、つまりその男性は機能をもっていて、デートいう役割を果たしている。すると矛盾が発生して殺してはダメになる訳です。
ちょっと話が脱線しますが、ブッダの弟子がブッダに対して「神はいますか?」「生まれ変わりはありますか?」という質問をした。その時にブッダが「毒矢の例え」で答えたという。「毒矢の例え」とは一人のひとがどこからか飛んできた毒のついた矢が胸に突き刺ささって苦しんでいて、その時にどこから矢が打たれたのか、この毒の成分は何なのか、何メートル先からか、ベクトル計算するとなど考える前に矢を抜けよってこと。つまり、ブッタは「霊」とか「神」とか「自我」とか考える暇があるんだったら他にやることあるだろ、だから「神」がいるとかいないとかどっちでもいいじゃんっていうのが結論。これが「空観」に機能(やる事)(役割)をもたせた考え、つまり「中観」。
私も「どっちでもいいじゃん」ってのが結論で、答えがでないものを考えるより他にやりたい事や、大切なことを楽しむ、そして人生有意義なものにできればと思いました。ただ仏教などの哲学全体を把握しての「どっちでもいいじゃん」と何もせずめんどくさいから開き直って、さも分かっているかのように「どっちでもいいじゃん」とでは雲泥の差があるので勘違いしないで欲しい。是非、皆様も仏教と聞いただけで邪険にするのではなく、知っていると悪徳新興宗教やスピリチュアルなんかで高額なお布施などを払うことも予防できると思います。是非これをきっかけに仏教本でモチベーションを上げてみるのもいいのではないでしょうか。
合言葉は「どっちでもいいじゃん」です。
何歳?
自分まだ20にもなってないけど、最近になって髭の剃り跡が明らかに浅く青黒くなってて、嫌になってくる。
髭が固い上に密度が無いから髭伸ばしてもかっこよくないし。
脱毛するにしても医療じゃなくて美容整形の類だから気が引ける。
いつかはハゲちゃうんだろうな。
そのときは出家する。
嘘。
おめーそれでモテないとか当たり前だろうがww
普段は出さない?そりゃ君が出してないつもりなだけで滲み出てるんだよ。確実に。
そもそも学歴だとか収入だとか生活レベルだとかを明示的に示すことそのものは問題の本質とは関係ねーよ。
そこんとこ理解しない限りヒモ男を飼うくらいしか無いだろうな。
もう33ってことでいまさら性格変えるのも相当難しいだろうから、恋愛したい!っていう気持ちの方を変えるのが手っ取り早いと思うよ。
あるいは一度出家でもして根本的な価値観からフルボッコにされるといいかもよ。
挫折したことなさそうだし。挫折するほどの挑戦はしないタイプっぽいし。
っていうか釣りだよねごめん。
とりあえず出家してみたらどうでしょうか?
http://anond.hatelabo.jp/20080708184613
とても面白い企画だと思ったので、便乗させてください。
ご覧の通り趣味に走って暗めですがそのあたりはお許しを。
さんとの作品の重複は避けたつもりです。
太宰治「燈籠」
福田英子「妾の半生涯」
福澤諭吉「旧藩情」
ガールシン「四日間」
萩原朔太郎「月に吠える」
原勝郎「東山時代における一縉紳の生活」
樋口一葉「うつせみ」
穂積陳重「法窓夜話」
石川啄木「時代閉塞の現状」
泉鏡花「術三則」
カフカ「道理の前で」
北原白秋「邪宗門」
小林多喜二「党生活者」
幸徳秋水「筆のしづく」
桑原隲藏「蒲寿庚の事蹟」
ルブラン「奇巌城」
中島敦「狼疾記」
折口信夫「翁の発生」
ポー「アッシャー家の崩壊」
スウィフト「アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」
タゴール「ギタンジャリ」
寺田寅彦「流言蜚語」
徳冨蘆花「謀叛論(草稿)」
内村鑑三「後世への最大遺物」
イエイツ「春の心臓」
与謝野晶子「女子の独立自営」
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50815759.html
の書評および『仏教は心の科学』はトンデモ。仏教学への冒涜でしかない。
まず,
ではない。どれが「ブッダの言葉」なのか確証を持つことができない現状では,「ブッダの言葉」は単純でも明快でも痛快でもない。
スマナサーラ氏が自分にとって都合のよいものを「ブッダの言葉」として選び出しているだけ。
そもそもパーリ語はブッダが使っていた言語ではない。パーリ語は西インドやスリランカのプラークリット(方言みたいなもん)。「ブッダの言葉」は現在では半マガダ語もしくはそれに類似するものといわれている。
スマナサーラ氏はスリランカの言葉であるパーリ語へ翻訳された「ブッダの言葉」(それもブッダの死後200年以上を経過して)を「ブッダの言葉」として決めつけているにすぎない。
次,
以下の下りなんて、「それってどこのGeek?」ではないだろうか。
みなさんは天界に生まれ変わったら、遊んだり、音楽を演奏したり、踊ったり歌ったり、性的な行為を思う存分やったり、お腹いっぱい食べたり、そういうイメージで「楽しそうだな。天界に行きたいな」と思っているのではありませんか。
でも本当は天界では、そういうことをしないと死んでしまうのです。彼らは楽しんでいるわけではなくて、必死で生きているのです。遊ばなくては死ぬのです。音楽の波動で生きている神々は、ちゃんと定期的に、決まった時間にその音楽の波動を食べないと死んでしまうのです。我々は楽しくなるために演奏を聞いたりしますが、天海の場合は、生死の問題です。死ぬか生きるかの大問題なのです。それでも皆さんは天界に生きたいですか?
仏教は仏界を目指すものであって天界のような縁起の内側の世界はフル無視で当たり前。こんなので「どこのGeek?」って驚いてたら,弥勒菩薩の世界(トゥシタ天ね)なんかは子供がひざの上から産まれてくる。しかも三歳児の姿で。Geekどころではない。無知すぎ。
次,
いやブッダはつるんでます。ブッダのサンガには多くの仏弟子が集まっていました。それから三宝って知ってますか?仏法僧。仏と法とサンガ。サンガって僧団ね。それに帰依しろと。ブッダがそういって死んだと書いてあるのは,ほかならぬパーリ仏典です。
同じく
パーリ仏典には組織の長であるクシャトリアの帰依の記述がいくらでもあります。
また,
「ブッダの教え」の根本に「出家」なんかない。勝手に決めないように。
次,
パーリ仏典の記述によれば,ブッダ自身が行なっています。デーヴァダッタの仏教を。
勝手なことを言わないように。
最後,
仏教は科学的な教えです。「科学的」とは、どんな人間にも当てはまり、なおかつそれを自分でも確かめられる、証拠があって証拠に基づいた話が出来る。そういうことです。
と思うならば,どうかご自分で原典なり研究書なりを当たって勉強してください。
スリランカやタイやミャンマーの仏教は,日本の仏教と同じく,ブッダの教えをいくつかのフィルターを通して伝えている仏教です。
そうではなく,我々現代人には西洋の人文科学の方法論に基づく,実に科学的な仏教学というものがあります。それに基づいて話をしてください。そのフィルターを通して理解する仏教が,科学的な「ブッダの教え」というものです。
24歳中卒女。ウェブ業界社会人歴6年。転職5回。ずっとベンチャーでガツガツしてきた。
過去にやってきた功績を認められ、新規プロジェクトを任せてもらえるということで
しかし入社してすぐ本社の方針変更で、専任のプロジェクトがストップ。社内では放置プレイ。
このプロジェクトができたら集大成だ!死んでも悔いはない!と本気で覚悟していたから
どうしてもストップの話をひっくり返したくて提案資料を作成する予定。(いまここ)
これでも却下されたらどうしよう。
もしもの場合ということでボスから、他の業務のサポートにという提案をされている。
それは、やりたいことじゃなお。確かに、今までのベンチャーと違って福利厚生が充実していて
ボーナスもあるし、ここにいれば安泰っチャー安泰。あれ?安泰を求めるために生きてきたんだっけ。
ウェブとリアルをシームレスに!これがしたい。荒波に飛び込みたい!
前の会社の人たちは戻って来いというし、別の会社からもお声がかかってる。
しかし何もせずに会社を辞めるというのは嫌だ。最短記録ってレベルじゃねーぞ。
本来やりたかったことはできなかったけど、また出来ると信じてチャンスを狙って他の業務に没頭するか。
どうする自分。どうする自分。ライフカード並にどーすんのよ!
つ[そのままがんばる] つ[さっさと転職] つ[出家] つ[結婚]
こんなに人生で迷ったことはない。if文書いて実行したい!先読みしたい!
http://anond.hatelabo.jp/20070321150102
まっとうな宗教者ならわかってるはずのことなのですが、信教にはいろんなランクがあって、例えばみんなよく知ってるのが在家とか出家とかいうやつ。「信じてない」も飽くまで信教のレベルのひとつに過ぎんのですよ。信じていないものが何らかの宗教的(とみえる)行動をとったからといって何の不思議もない。宗教的行為・行動は別に宗教者・信教者だけのものではないんですよ。
さらにいうと、信教ランクの高いものがより低いものを「もっと高いところへおいで」と勧誘することはあっても「おまえはそんな低いところに」と揶揄することは無いわけです。つまり、トラバ先エントリ者は、信教者なのだとしたらその風上にも置けず、無信教者だったとしても「俺的無神論」を押しつけるだけの無益な存在であり、いずれにしてもそのどちらでもなく、そのどちらよりももっと気持ち悪い位置に胡座しているということです。
かわいそうにね。