2009-01-16

確かに人生意味はない。しかし、そのことを、絶望することはない。

さっき、家から帰ってみたら、俺の日記に100件以上、ブクマが付いて、吹いてしまった。

http://anond.hatelabo.jp/20090116090907

この日記って、今朝、どれだけの人間が反応するかと思って、ネタで書いたもの。

構想から、執筆までわずか、5分。

しかも、初増田

それが、100ブクマを達成してしまうとは……

俺が、自分自身のブログサイトに、どれだけ、熱心に論考を書いても、ブクマは、数件しかついたことがない。

それが、5分即席文章に100件だと!

はてな民は、ネタへの食いつきは、やたら、鋭いな……

それはさておき、話題になっている、自分日記について、詳しく書いてみる。

まず、「人生意味がない」というこの文章は、仏教の空観を根底に置いて書いたものだ。以後、仏教思想と絡ませて、話を進めていくことになる。

次に、ここで使われている「意味」という言葉の用法が、あいまいだと書かれているようなので、補足しておく。自分が「意味がない」といったのは、「(人生において、不変で、確実な価値を追い求めても、人間は、少なくとも100億年で消滅してしまうのだから)まったく意味はない。」というつもりで書いたのだ。要するに、ここでは、仏教の空観を述べている。

また、俺はさっき、この日記を「ネタ」で書いたと述べた。しかし、「生きていることに意味がない」という命題を、俺は、正しいと確信している。

俺のエントリーに対する、コメントとして、「こいつ厨二じゃんwww」というコメントを多く見かけた。確かに、「人生無意味」なんて文章を本気で書いて、人生絶望する人間は、真性の厨二だろう。だが、俺の日記を笑っている奴らは、俺の言っている、「自分存在の痕跡は、百億年で消え、さらに、少なくとも100年以内に、自分自身の存在が消える」ということを、本当に理解しているのだろうか。そのことに対する自覚が伴っていないと、無常である金やら、物やら、女やらへの欲望に振り回されて、生涯、苦の輪廻を循環するように思えてならない。

そこで、俺が「人生意味がない」と信じているのなら、「増田は、人生絶望を抱いているのか」という、当然の疑問が起こるだろう。答えはNoである。

確かに人生意味はない。しかし、その命題が、生きている時に味わう、この感動、この感覚、この心の震え、この悲しみ、そういった物の存在を否定することはできない。人生意味がなくても、生きている「この」存在そのものを打ち消すことはできないのだ。(このことは仏教で仮観と呼ばれている)

俺が言いたいのは、「人生意味はない」という空観と、「人生喜怒哀楽それ自体の存在は否定できない」という仮観、これらを両立させ、その両方のバランスを取る必要があるということだ。(ちなみに、このことを仏教では「中観」と呼ぶ。)

俺は、中観の境地を目指そうとしているが、なかなか、できそうにない。仮観に偏って、ネトゲー三昧の毎日を送ったかと思うと、空観に偏って、人生を悲観視することの繰り返しだ。もしかしたら、中観へ至ることが、俺の人生意味といっていいかもしれない。

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