子供の頃は自分が何を考えてるのか自分で整理する暇がないくらい常に頭がいっぱいだったから、この表現で合ってるのかも分からない。
私も母に殺されそうになったことが何回もあるし、この人私のこと殺したいんだろうなーと思ってた。私の方が殺そうとした回数は多いと思う。
お互い実際に死にかけた数は少ない。
二人とも人を殺すほどの度胸がなくてよかったと今は素直に思う。
あのまま流されてたらどうなったんだろうと思って、たまにもったいないことしたなって後悔するけど、多分それもそのうちなくなる気がする。
母と私はまあまあ仲が悪くて、普通にお互い合わなくて、うちに父親はいなかった。
だからあんなにお互い余裕がなくてたまに憎しみを持ってた事も、今となっては必然のように感じる。原因はおそらく常に私にあったけど、今となっては向こうも私に好意的な対応しかしてこないから結局一緒に暮らすのに向いてなかったってことなんだろう。
矛盾しているように感じるかもしれないけど私は母のことが結構好きだったし、母はまっとうな親らしい愛情を持った普通の人だった。
私は母に普通の親らしい愛し方で通常より多少親切で深い愛を与えられていたと思う。
ただ、本当に相性が悪かったので、私はそれが結構気持ち悪かった。いわゆる過干渉とかでは全くなく、純粋に私にそれを受け取る才能がなかっただけなんだけど。
普通に普通の人ができる母からしたら、育てにくい上に愛情を示したら憎しみを向けてくるような子供のために自分を削りながら送る生活はかなり苦しくて寂しかったんじゃないかと思う。
夫にあたる人はいなくて、私は話が通じなくて、その子供が人に迷惑をかけて頻繁に呼び出されたりするせいで、必死で稼いだお金が消えていく。どんな気持ちだったのか分からないし聞くことはないけど、可哀想だなと思う。
私は母のことを尊敬してるし、母の愛情を受け止めることができるようになったけど、結局こうやって可哀想だとしか思えないし、母のことは愛してるけどどんなに尽くしても私が感謝するのは別の人なのだ。
母の人生を思うと可哀想になる。あの人が文化的に恵まれた人で自分の人生を大切に思ってることも知ってるから、これはすごく失礼な感情だと思う。
私自身が母の今までの献身や私への気持ちを過大に捉えてる可能性を考えないわけじゃない。でもどう考えても、私の存在を捨てて母の人生を語ることなんて不可能だから。
私は運が悪くきちがいに生まれて、育つまでの過程で母を殺したくなり、母は運が悪く自分の子供がきちがいで、必死に育てようとしてその過程で殺すしかないほどに追い詰められた事がある。それでいいんだろうか。
間違いなく母のことを愛してるはずなのに、今でも殺しておいた方がよかったんじゃないかと思う瞬間がある。
私が機会に恵まれて昔はできなかった色んなことができるようになっても、母のようにはなれないから、何故かそれがすごく可哀想になる。私が可哀想なのか、母が可哀想なのか、分からない。
母は私が今みたいな形に収まって、私との関係も親しみはないけど良好、みたいな感じで安定してて、きっと結構満足してる。
全部私の問題で、私だってもう母を殺しておくべきだったと思うことはあっても殺したいと思うことはないはずなのに。全然まとまらなくてただ可哀想だと思う。
母は運が悪かったんだと思うし、自分のことを運が悪いだなんて思う人じゃないからそれすら必要ないかもしれないけど、私は運が悪かったなんて言葉で言い表すことを受け入れられないくらいに母を可哀想に思ってる。
なんでこんな風になったんだろうと思う。
いろいろ書いてるけど親離れできず執着が強いだけだな それを「殺したい」にまとめるのは ひとの耳目を引きたい、かまってちゃん根性がしみついてるから 昔々、ネット掲示板でひと...
多分ねー、今までの憎しみの気持ちが大きすぎて、まだ上手く切り替えが出来てないんだと思う。 その憎しみでさえも貴方にとって大事な感情なので、全然急がなくていいんだけど、...
よくこんな気持ち悪い文章出てくるもんだな
愛と憎悪は同じコインの裏表という言葉があるように、増田のお母さんを殺したいという気持ちは、執着や情愛の現れなのだろうと思う。その気持ちをうまくコントロールできる日がく...