ぼっちざろっくのアニメを見ている頃、俺はいつからかぼっちちゃんになりたくてたまならかった。
ぼっちざろっくの原作は前に3話ぐらい無料で読んだけど、その時は「ふっ……憐れな音楽女め……」と見下していたのに。
ぼっちちゃんみたいに努力したかったし、ぼっちちゃんみたいに可愛くなりたかったし、ふたりちゃんみたいな妹が欲しかったし、ふたりちゃんの残り湯に浸かりたかった。
そんなものは一時の迷いで、ぼざろが終われば「ちょwwwww大正野球娘キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!これは期待wwwwww」してると高を括っていた。
だが実際には、俺のぼっちちゃんになりたさは一月が過ぎても冷めず頭の片隅ではいつも結束バンドの歌が聞こえていた。
無数のブログを読み漁ったし、自分の性格や人生も徹底的に洗い出した。
答は得た(エンディングスチル)。
俺とぼっちちゃんには大きな違いがあって、だから俺はぼっちちゃんになれず、そしてそれはぼっちちゃんになる必要のなさを意味していたことを。
その答とは、俺は「寂しがり屋」ではなく、ぼっちちゃんは「寂しがり屋」だということだ。
友達ランキングの一位はいつも孤独で、二位を争うのは孤独をあいする誰か、大抵の場合は自分自身だが、時折孤独の愛し方が好ましい友人に出会ったりもするがお互いが孤独を愛するため気づけば離れていく。
人と触れ合いたいという願いを持ちながらその精神構造から繰り出す無数の奇行により気づけば1人になっていく。
そしてそれに苦しんでいる。
俺は孤独でも全く苦しくない。
お互いに人といる状態に苦痛を感じるというのは同じだろうが、それでも人を求めるぼっちちゃんに対して、俺は人を求めることをもう辞めている。
絶対的に違うのだ。
1人で食っていく方法さえ確立できれば、あとは金を稼ぐ以外の時間は孤独に楽しく暮せば良いのが俺だ。
だが、ぼっちちゃんは孤独なまま金を稼ぐことが出来るようになったとしても人の温もりを求めて彷徨うのだろう。
飢え方が全く違う。
というか俺は全く飢えてなんか居ない。
満たされてしまっている。
幸福という天敵を前にして、俺の中の創作意欲はもはや完全に消え去っているのだ。
気まぐれな承認欲求の元に、時折ふとそれがあればと求める時はあるが、実際にはそんなものを燃やしてまでチヤホヤされる気なんて無かったんだ。
覚醒したぼっちちゃんは語る「チヤホヤされたい。今度は皆で」と。
俺は違う。
その差だ。
なる必要がない。
もう俺の幸せをつかんでいる。
わかる この増田とはいい友達になってから自然と疎遠になれそうだ
お前は下北沢の柱になれ
孤独を愛してるやつに響くアニメじゃねえよなって思うんすよね、ボッチ。 そもそもなんで見たんだよって思ったです。 けど二次創作の漫画で流れてくる挨拶代わりにチューする虹夏と...
ぼっちちゃんは孤独なだけで、別に孤独を愛してるわけではない。 リョウパイセン視点の作品だったらそういう作品になったかもしれんが、彼女は彼女で文化祭で滑ったことを引きずっ...
孤独を愛してるからって自分以外がどうなってもいいと思ってるサイコパスなのは違うだろ。
まさにこれ。
たいやきの他にストパンとかラブライブとか城プロとかに触れていたら、この増田は俺の友人なのではと疑っていたところだ