穏やかな気持ちがほとんどだが、焦りというか、こんなことをしている場合なのかと不安になる。
いつも焦燥感に駆られている自分がいて、その自分をある意味で受け止められているということもいえるが、一方で、一社会人として、差をつけられているような気がする。アウトローな生き方だと思っていたけど、実は競争が好きなのかもしれない。
◯◯だが、一方で、という考えはまだある。
社会人として東京で揉まれることが人としての研鑽に繋がるとも思うし、でも、揉まれる中で大事な何かを失ってしまっている人もいると思う。親への感謝とか、人への優しさとか。
その間をうまくバランスを取ろうとして、結果不器用さが露呈しているのかもしれない。
自分の弱さを見つめ始めた2022年。その結果生まれた甘え。昔から甘えの要素は大きかった。
もしこうやって穏やかに過ごせる環境でなければ、真っ当に働いていたのかもしれない。
モテたいとも最近は思わなくなった。彼女ができて安定したのだろう。だから、金がかからない。
すごいなと思う人は学生の頃も社会人の頃もよく会う。昔は逐一刺激を受けて、または比較して自分を卑下していた。最近は、そういう人もいるな、としか思わない。
これが成長なのか。大人になるってことなのか。それとも、老いてしまったのか。
やりたいことがなくなったわけじゃない。現に、事業を起こそうとしている。でも、その割には暇だ。退屈。
業務委託もちょこちょことやっている。先月全部切ろうかと思ったけど、今月は業務委託に救われているようにも思う。
バランスを取るのって難しいな。そうやって人間が揉まれていくのかもしれないし、20代はバランスなんか考えずに偏ってしまった方が厚みが出るのかもしれない。
丸くなるな、星になれというキャッチコピーがあるが、あれが刺さる年代になった。
いまならまだまだ取り返せるとは思うけど、そうしたいかどうかはわからない。一種の精神病なのかも。
必要に駆られて動けるタイプと昔褒められたことがあった。それはつまり、必要でないと動けないということ。ドーパミンで生きてきた人間だから、ドーパミンを出すことでしか自分を動かせない。そうじゃない人もいるのかもしれない。もしかすると、ドーパミンを出さず別のところに源泉となるエンジンが付いている人こそが成功者として誉められる。
この感情・状態に模範解答はあるのだろうか。自分の心に向き合うというのが答えなんだろうが、その結果、あまり働かなくなった。
その人生は物寂しいと思うなどしている。