呉座氏へのオープンレター問題で署名捏造が明らかになったが、これに対する典型的な擁護が「善意でやっている行為に完璧を求めるのは酷い」とするものだ。
これが2重の意味で誤りであり「リベラル」が失敗を繰り返す原因であることを説明する。
理由の大部分がこれ
正義だから支持されるべき、悪だから非難されるべきとのべき論が先にきてしまうが、本当に自分たちは正義なのか、正義なら何をやっても良いのかは省みられることがない。
前項の善意は正義を指していたが、本項での善意は性善説での使われ方に類する。
性善説と言えば聞こえは良いが、要は思考停止でありであり責任回避だ。
参加者の善意を信じるとか言ってチェックの作り込みをサボる。その結果悪用されたら自分たちは被害者だと責任を取らない。
被害者に対して、文句は悪用したやつに言えと平気で言い放つのが彼らの正義なのだろうか。
端的に言ってしまえば、定義上のリベラルが求めるのは「公正」であって「正義」ではない。前2項の何処に公正さがあるのだろうか。
「正義」を求める、そのためなら手段も選ばないという発想をするのは保守と呼ぶべきなのだ。
加えてその正義も身内の間でしか成立しない、徹底的な内向き志向、エコーチェンバーそれが今リベラルを名乗るものの正体だ。
リベラル側が問題を追求されるたびに出てくる愚痴で頻出するのが「相手は好き放題やっているのに自分だけ咎められるのはズルい」だ
自分が実現しようとしているのが公正ではなく正義である事をこれ以上無く吐露している。
リベラルを名乗りたいならはを食いしばって公正を貫け
現状のリベラルが指示されないのはベクトルが違うだけの保守であり
それが見透かされていることに気付いていないからだ
まーた説教か この時間は承認欲求不満な奴であふれてんのか?