そうではない
人間の観測の終わりは観測者を失った無制限の反転の始まりであり、恐怖という生命からの観測の拠り所を失った無制限な観測は、一転してある種生命の喜びに似た様相を示す
泉が流れる様がキラキラとして美しく輝いていて美しく喜ばしいと感じた事はないだろうか?
生命の本質からすると泉よりも自己の人生の方が重要である。泉の周囲に危険がないか、泉の水は飲めるのか、泉を見つけたことで他の群れの仲間から認められたり誉められたり尊敬されたりするのではないか、明日の飯は何か、より社会的に成功するためにはどうすべきか、よりよい異性を獲得するにはどうすべきか、泉に時間を使うのが勿体無いか、泉で休みたいか、泉を見るのも面倒臭いので寝たいか、病気の母がいるか、そんなところである。生命は生存のために作られた観測に自己のアイデンティティを見出してしまう。
しかし、恐れ、心配し、無関心で、関心を持ち、その取捨選択を成せるのは報酬系の機能である。
泉は観測される前は美しく喜びに溢れ、山々も地面も花々も全て喜びに溢れていた。(報酬系が見せる喜びの錯覚とは違う)
生体機能が高度になり、情報の取捨と条件付けが生体自身に観測に「連続性と同一性」という錯覚を与えて、その一瞬一瞬の連続体について自己と認識して同化してしまうシステムのために、世界が美しいことが見えなくなってしまっている、という指摘の歌なのである。
「もろびと こぞりて」ってのは「諸人 こぞって」 つまり「どいつもこいつも」という意味。 シュワキマセリ(schvaq-i'mazelier)は古代エスペラント語で 「最後に開いた扉の音」という意...
そうではない もろびと こぞりて の本来の意味 最後の扉とはなんなのか?地獄の扉とはなんなのか? それは、人間が観測できる最後となる扉 人間の観測の終焉なのだ 人間の観測の終わ...