過労自殺というのは痛ましい話だ。
仕事で追い詰められ、もはやどこにもいけなくなってしまい、自ら死を選ぶ。こんな事起きてはならない。
だが、過労自殺という言葉には、売春をなんとなく小奇麗にした援助交際やパパ活というものとなにか同じものを感じる。
過労自殺、つまり、疲れすぎて自殺する、と言うやつなんだが疲れ過ぎたことの原因に全く触れようとしていない言葉だ。本当はもっと細かいはずだろう。物事の本質をこの四文字熟語は含んでいない気がする。なんと言うか事象をあっさーいレベルでしか表現していない。
要は「疲れすぎるかどうかは本人の問題」みたいなニュアンスがどこかにある。オレの被害妄想かもしれないんだが、「若いSEが過労自殺しました」とか言うと、周囲の反応は「なんでそんなになるまで頑張っちゃったのかな」とか「そんなになる前に逃げるべきだった」という感じになる。つまり、自殺した本人のせいにしている。本人の性格もさることながらここに雇用者や同僚(正確には監督する立場の人間)が全く出てこない。
だけど専門家は言う「そうじゃない」と。
過労自殺してしまうまで追い込まれてしまう人たちにはもはや「頑張ることをやめる」とか「この場から逃げる」などという選択肢はもはやない、と言っている。冷静に「オレは疲れすぎたから自殺します」などと考えていないと言っている。考えているかどうかすら怪しくなった人間に自制を求めることは間違いだ。
もっと強い力で強制しなくてはならない。これだけ過労自殺が起きているのに、それでも過労自殺が起きるまで仕事させているのは「未必の故意による殺人」何じゃないか。
過労自殺という言葉は今の日本社会にとってとても都合のいい言葉なのだろう。裏を返せば多くの企業で過労自殺させてしまうほどの激務が存在するということでもあるし、それを直視したくないということなのかもしれない。