人間は愛をヘテロ親と幼児の自分というモデルから認識しはじめることになっている。
それだとふつうの「愛」が「性愛」を含みつつもっと大きいものであるということがなかなか理解できないので
「親がちんぽとまんこをべちょべちょにしたいやらしいセックスして自分を生んだのだ」という概念さえなかなか受け入れない。
親が自分を生んだ行為、あるいは性犯罪など合法でない行為への警戒を知るのと、
「同性愛」もねちょねちょしたいやらしいものにみえてしまうんだろう。
(つまり、悪い方からさきに知ったら良いはずのものも悪いものと同一の箱に分類されてしまう。
人間の脳はそういうふうにしくまれていて、なかなか訂正がかなわない。
そういう意味でも性犯罪は罪深い。訂正できないことで苦しむ本人によって魂の殺人と形容されることもあるほどだ。)
そして「同性愛」のなかにはそういうお行儀の悪い同性愛者(もっぱらねちょねちょしていたくて同性愛している)もいる。
もちろんヘテロにもそういう体をつかった愉悦、スポーツ感覚でセックスばかりして愛はそっちのけのタイプがいる。
そこから対極にあるゲーム感覚のセックスは教育の都合上忌避されてきた。
そうなれば両者の中間にある成熟した愛までも忌避されてしまう部分が今の時代まで残っていても多少ならばしょうがない。
愛の営みへの理解の解像度を挙げていく人生だけが人生だけでないのでアセクシャルで死んでもいいんだと周知されるまでは。
掲題の通りなんですが、性的少数者に対して過剰に拒絶反応を示す人の思考が難しいなと思う。 友達の好きな人が、ブスでもハゲでもデブでも引かないし、どうでもいい。死ぬほどどう...
自分は偏見ないけど、ヘテロ親と幼児の自分というモデルから認識しはじめることになっている。 それだとふつうの「愛」が「性愛」を含みつつもっと大きいものであるということがな...
わからんけど、確かに他人の好きな人なんかクソどうでもいいわな。 でも不思議なことに小児性愛者だけは許容出来ない自分もいる。