2018-08-31

本当に死ねると思う?

質量保存の法則的な意味

記憶をなくすことは簡単で、人間という生物の死だけで考えればそれは実に単純に起こり得ることなのだけど、そういう観点でいえば人間の個なんてもの記憶連続性がそれを個だと信じさせているだけに過ぎなくて、自分自分かも知れないと疑うことでしか自分証明できないことはかなり昔から言われていることなのだから、つまりはそれでしか証明できないという点においては人間なんて存在はすべて共通であり、自分が個だと信じているものは結局記憶連続性というまやかししかないのであれば、そもそも自分が他の存在観測できることにこそ魂の存在を疑う余地があり、それは記憶とは本来つの存在なのだからどの生物においても観測できるということこそが個の証明にほかならないと考えれば、それはつまり万物が等しく他を観測できる、それは記憶に残る残らないは別として例えば接触できるということだって認知できると置き換えられる点において、自らがどのような物質に変化しようともその観測認知可能という状態なのであれば個は存続しえると考えたほうが自然だとするならば、人が人として生きる死ぬ一喜一憂する姿こそが滑稽であり、たとえ死を迎えたときにそれが記憶連続性が失われたことだけを憂いての死だとするなら、それなら過去すでに失われた記憶は等しく死を迎えていることになり、つまり生物生物として本能として備えている死を恐れるということだけが人間を活かし続けていることにしかならいのだから、死にたくないと強く考える生物けが生き残っている結果論しかないもの進化などという言葉を名付けたことがおごりだと理解できるはずで、生きることも死ぬことも本来意味を持たず、死にたくないと強く願うものけが死にそこねているという皮肉運命から逃れるには、本能に刻まれた恐怖の内側に首を突っ込んでみなければ見えてこない世界があるとした上で、ならばここでまた話しを戻すと、観測認知をしているのはどの次元存在なのかという問題につながるのは自明の理である以上、皆が皆自分けが個だと信じているものの先には観測が行き着く別の次元存在していて、つまりはそこにこそ本来認めるべき個があると結論にたどり着かざるを得ないとなった時点で、全ては死を迎えると同時に本来の個に帰納することが証明される。君は死ぬことで目覚める。

  • 結論がよくわからなかったが 『自由意志』とか『自分』と認識しているもの(自我)は気のせいとはよく言われるよね だからといって死にたいかと問われればNOだが

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