最近、首長選挙の立候補者が街頭演説していたのを通勤中に見た。
その瞬間に、「あ、この立候補者には投票しないだろうな」と思った。
後日、その立候補者のチラシがポストに投函されていた。目標、政策には納得できるものもできないものもある。
それはどの立候補者でも自分と意見が合うところ、合わないところがあるのは普通だから後は人柄を見て決めるだろう。
その時、「人の名前を間違えたまま放置したり、わざと正しく書かないような無礼者の仲間にはなりたくない」と思う。
アベノミクスという言葉があるのだから、アベ政治と表記しても良いではないか、というのなら、それでもいい。
ただ、人を非難するときにあえて名前を正しく書かないという点だけで、その人は自分が気に入らない相手のことは軽んじていいと思ってる、そう判断されても仕方ないのではないか。
推薦コメントを書いた浜矩子同志社大学教授は安倍政権と書いていた。
浜教授は毎年アベノミクスが終わるとかアベノミクスはアホノミクスなどと主張する本を出してきたが、政権を指すときにはきちんと安倍政権と書いている。それだけでこれまで、無礼なおばさん扱いしていた自身を恥じたくらいである。
私の名前もよく漢字を間違えられる。間違える側はなんの気もないのだろうが、間違えられ続けてきた私は、「たった一度、メールを送ったりポストに投函する前に、正しいかどうか確認する手間もかけてもらえないのか」と思うし、それだけで軽んじられていると感じる。
だから、人の名前を間違えたまま放置したり、場合によってはわざと正しく書かないような人が庶民の声に寄り添うとか、弱き者、小さき者の味方でなければならないとか、みなさんの心をつなぐと主張してても、「気に入らない相手なら軽んじても平気なのだろう? 排除しようとするのだろう?」と考えるのだ。
政治家が気に入らない人を排除していいと思い出したら、それこそ恐ろしい事ではないか?
世の中には意見が決定的に合わない相手もいる。特定の政治家の活動が気に入らない事もある。しかし、そういう時こそ気に入らない相手を非難するときに、自分が周りから無礼者に思われないようにした方がいい。
そして、特定の政治家を応援する人もよく心したほうがいい。世の中、賛否が分かれるなにがしかがあるとき、態度を決め兼ねている人を動かすのは、最後は礼儀正しいのかどうかだし、政治家本人だけでなく、その周りで応援している人もその評価の対象だ。(安倍政権とネトウヨ、野党とパヨクの例を見よ。取り巻きは政治家本体と絡めて見られるのだ)