一箇所にじっとしている様子を見ると、この家で生まれ育ったのではなくどこかからの長旅で疲弊しているようだ。
僕はティッシュペーパーを数枚手に取ると、退路を塞ぐように立ち一呼吸に手を伸ばした。
それが運命であったかのようにゴキブリはティッシュペーパーの中に収まり、僕は甘く握ったままそれをトイレに放り投げると水で流した。
妻はその姿を賞賛する。しかし、虫を手でつかんだことに対する嫌悪感のようなものを眉間にもにじませているようだった。
勘違いしてほしくないのは、これは生命に対する冒涜ではないということだ。
子供が生まれてからしばらくしたある日、僕は蚊を叩いて潰すことにはばかりを覚えた。
彼にも魂があり、この血を吸うこと、つまり生きる権利を持っていると考えたからだ。
授かった命の重さと、この生命の重さにどれだけ違いがあるというだろうか。
夕刻に食卓に晩御飯が並ぶと、目の前には死体を切り刻んだ破片が更に何度も残酷な手段を加えられて並べられていた。
それらはまぎれもなく命だったものだ。
僕のためらいはあっけなく空腹に負け、箸はいつもの様に死体を刺し、細かく分けては命だったかけらを僕の口に運び続けた。
蚊を殺したからと言って口にするわけではない。
口にしたからと言って、殺された魂が救われるわけではない。
そこに殺生と不殺生の違いを見つけることはできなかった。
ベッドに寝転びながらそんなことを考えていると、おもむろに自らの腹をぶち破って植物の芽が顔を出した。
それはみるみるうちに部屋の天井を突き破り、大きく育っていった。
その植物が育つのと同時に、僕の身体は細く痩せこけ意識は遠のいていく。
薄れ行く視界の先に見える植物の枝先には、様々な生命が実り始めた。
たわわに実ると重さに絶えきれなくなったのか、大きな一匹の魚が僕の顔めがけて落下してきた。
それを避けるように身体をひねろうとした時に僕は目を覚ました。
その日から、命あるものから命を奪い取ることにためらいがなくなった。
今とは、今をいきる命のためにあるのだということを理解したからだ。
ゴキブリをつまんで捨てることにためらいがないのは、その生命を奪うことが今の自分たちが生きることに必要なことだとほんとうの意味で理解しているからだ。
それは同時に、自分の命さえも今を生きる存在から造作もなく奪われることがありうるという覚悟でもあった。
人間だけが他の多くの生命をコントロールできる尊い存在だと勘違いしている。
今の世界において、人の命を奪うことは即ち自分の命を脅かす行為でもある。
だからは人は人の命を奪うことに抵抗を感じている。ただそれだけのことでしかないのだ。
で、ゴキブリをつまんで捨てられる理由は?