イスラエルの所業を批判するならば、当然のごとくホロコーストをも批判することになるはずだ。
イスラエルがパレスチナに対してやってきたことは、実に残酷で許されざる行為であるが、それと比べてさえホロコーストはあまりに恐ろしい。
パレスチナ人虐殺を批判する人は、ホロコーストについても同様の理路でもって批判できるはずなのだ。
しかし、イスラエルによる弾圧でもってホロコーストの罪が相殺されるとでも言いたげな人が存在する。
いったいぜんたい、彼らはどういう考え方をしているのだろう?
仮に、ある事件で犯罪被害者になった人間が後に犯罪者となった場合、最初の事件の加害者の罪は相殺されるとでもいうのだろうか?
いや、それ以前に、イスラエル≠ユダヤ人だ。この例えは成り立たない。
じゃあいったい?考えてみよう。
わかった。相対化。
罪の軽重に何ら影響することもない行為なのではあるが、古今東西よく使われる詭弁。
たいていの場合、自分の為した何らかの悪行を擁護するために用いられるが、今回は己の行為ではなく他者の行為に対してだ。
しかし、擁護する?ホロコーストを?歴史上の非人道的事件において最も擁護の余地が無いこれを?
擁護のしようがないからこそ相対化するって話もあるが、どちらにしろそんなことを考えるのはネオナチか歴史修正主義者くらいであろう。
となると、相対化でもないのか?
もしかして、単にイスラエルむかつくからあてこすりで適当なこと言ってるだけだったり?
イラっときてパパっと書く。坊主憎けりゃの要領で主語も大きくしちゃう。敵の敵は味方メソッドでナチを擁護しちゃったりもする。
ホロ豚は滅せよ