2015-12-26

チャンネル権のない幸福と不幸

今の若者チャンネル権というのはもう死語なのだろう。

家にテレビが1つか2つしかなく、チャンネル権を持つ者の都合でほぼ毎日、観たくもないものを観なければならなかったのだ、

と言っても、信用さえしてもらえないかもしれない。

野球中継のおかげでドラゴンボールZが観られなかったのは今でも覚えている。

まあ、あの番組は展開が遅いので、1回2回飛ばしたぐらいでは大して問題なかったりしたのだが。

今は、嫌なら自分の部屋でスマホなりPCなりを使って、観たいものを観ればいい時代だ。

そんな時代が来てよかったと思うし、そんな環境が生まれながらにあるのは正直うらやましく思う。

しかし、やっと観たいものを観る自由が手に入ったのに、テレビはつまらなくなってしまった。

単につまらないというだけなら私の感性問題だろうが、そればかりでもない気がする。

芸能人予備校講師の出てくるクイズ番組が今いくつあるのだろうか?

下手すると、同じ時間帯にほとんど同じような番組をやっていたりもする。

そして、これは作る側の発想が貧困になったというよりも、予算の都合というものが強く感じられる。

芸能人台本に従って、スタジオごっこ遊びをやるのが、一番安上がりで数字が取れるし、

同じ予算でやれるような企画も他にないということなのだろう。

もちろん、バブル崩壊や、その後の不景気の影響が大きいのだろう。しかし、それだけでもない気がする。

かつては、だいたい父親の好みに付き合わされて、母親子供も同じものを観なければならなかった。

私の世代ではそれが野球中継だったし、もっと前ならプロレスなどであったと聞く。

しかし、だからこそ多くの人々の視線が集まり多種多様スポンサーが集まり大金が集まった。

故に、アホみたいに金をかけた企画も通ったのだろう。

今のテレビ局に、当時の規模でアメリカ横断ウルトラクイズをやる体力は、おそらくもう残ってはいまい。

娯楽の王様は、その周りに奴隷がいてこそ、王様たり得たのかもしれない。

観たいものを観られない、観たくもないものを観なければならないというのは、紛れもなく不幸だ。

そんなものはなくなって当然だ。

しかし、人の不幸の上に成り立つものもあったと考えると、ちょっとだけ複雑な気分になる。

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