2015-10-19

現象という言葉の恐ろしさ

うまく説明できない。

どういうときに感じたかというと…

都内の主要駅で大勢の人が行列しているのを見たとき

また、自分がその一部であるとき。一人ひとりにドラマがあるはずなのに、かたまりで見るとそれはただ1つの現象として捉えられるところ。

自分は、本当に自分自身意思で動いているのだろうか?個として認識されているか

庶民暮らしを知らない政治家たちは、所詮それを事象の1つとしてしか捉えていないのではないだろうか。

大勢の中に障害者を見かけたとき

ごみの中でたまに見かける、体の不自由な方たち。ノーマライゼーションの考え方からすれば、そういう人を見たからって別にどうということはない。

ただ、大勢の中で見かけると、ふと工場とかの不良品率みたいな考えがよぎる。神が生産した多くの人間の中で発生したエラー

「身体」の障害から他人から視認できるが、じつは大小/内外含めて誰にでもエラーはあるのだと思う。

田舎で生きる人たちを見たとき

大変失礼な話だけれども、それが悪いとは全く思っていない。

自分田舎から出てきた人間だ。ただ、意思もなく半ば諦めに近い動機でそこに留まる人たちがいた。

もちろん生き方自由だ。理由は諦めであってもいい。自らの意志で選択した結果だ、と伝わってこない人と話したとき、それはまるで NPC のようだと感じた。

例えば大人数のプロジェクト管理する人がいたら、その人はそこに携わる全員の面倒を見るだろうか?いや、チーム分けされチームリーダーが立てられそれを1つのかたまりとして扱うだろう。

規模の大きさは責任の大きさでしかなく、人ひとりが扱える分量は結局同じ程度なのだ。大きなかたまりを扱うとき不良品率を鑑みてリスクに備え、ルーチンを回す。

結局は地球上で起きる現象であって、インプットに対する結果でしかない。

自分もその一部である認識したとき、恐ろしさを感じるのだった。

  • まずは、各々が自分で自分自身をしっかり大切にするこったね。次に、分かり合える仲、似た境遇・近い立場・顔を毎日見る間柄にいる人同士。自助・共助・公助の順だ。 まあ、むかし...

  • 大勢の中に障碍者の人がいるのに違和感感じる、分かる気もするけど こんなに外出が制限されてる、大手を振って歩けてないのって 東京だけみたいなんだよね。 大阪、名古屋、どこい...

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