うまく説明できない。
また、自分がその一部であるとき。一人ひとりにドラマがあるはずなのに、かたまりで見るとそれはただ1つの現象として捉えられるところ。
自分は、本当に自分自身の意思で動いているのだろうか?個として認識されているか?
庶民の暮らしを知らない政治家たちは、所詮それを事象の1つとしてしか捉えていないのではないだろうか。
人ごみの中でたまに見かける、体の不自由な方たち。ノーマライゼーションの考え方からすれば、そういう人を見たからって別にどうということはない。
ただ、大勢の中で見かけると、ふと工場とかの不良品率みたいな考えがよぎる。神が生産した多くの人間の中で発生したエラー。
「身体」の障害だから他人から視認できるが、じつは大小/内外含めて誰にでもエラーはあるのだと思う。
大変失礼な話だけれども、それが悪いとは全く思っていない。
自分も田舎から出てきた人間だ。ただ、意思もなく半ば諦めに近い動機でそこに留まる人たちがいた。
もちろん生き方は自由だ。理由は諦めであってもいい。自らの意志で選択した結果だ、と伝わってこない人と話したとき、それはまるで NPC のようだと感じた。
例えば大人数のプロジェクトを管理する人がいたら、その人はそこに携わる全員の面倒を見るだろうか?いや、チーム分けされチームリーダーが立てられそれを1つのかたまりとして扱うだろう。
規模の大きさは責任の大きさでしかなく、人ひとりが扱える分量は結局同じ程度なのだ。大きなかたまりを扱うとき、不良品率を鑑みてリスクに備え、ルーチンを回す。
まずは、各々が自分で自分自身をしっかり大切にするこったね。次に、分かり合える仲、似た境遇・近い立場・顔を毎日見る間柄にいる人同士。自助・共助・公助の順だ。 まあ、むかし...
大勢の中に障碍者の人がいるのに違和感感じる、分かる気もするけど こんなに外出が制限されてる、大手を振って歩けてないのって 東京だけみたいなんだよね。 大阪、名古屋、どこい...