2015-01-04

期待に背くということ

昨日まで実家に帰っていました。静岡にいる弟も帰ってきて、久しぶりに一家4人で数日間を過ごしました。まとまった日を家族揃って過ごすのはたぶん来年正月までないだろうと考えると、これから人生家族揃って過ごす日がいったい何日あるのかとふと思います。1年で1週間分だとして、4年で1ヶ月。仮にあと40年だとしても、同じ時間空間を共有するのはあと1年間に満たない。理屈では分かるけれども、なんとなく了解したくないというか認めたくないというか、そんな気持ちです。

認めたくないことは他にも。近年、祖父の老化が顕著になってきました。歩くスピードゆっくりになって、耳が遠くなって、たまに僕を他の孫の名前で呼ぶようになりました。間違って呼ばれた僕が自分名前を祖父に言うと、きまって「ああ、すまんかった」と笑顔で言うのです。その笑顔を見ると、胸が張り裂けそうになります。あとどれだけ、どれだけ会話できるのだろうか。一緒に散歩出来るのだろうか。そして、あとどれだけ生きていてくれるのだろうか。僕をとても可愛がってくれたおじいちゃんが遠くへいかないうちに、恩返しをしたい。何が恩返しになるだろうかと考えたとき、数年前、大きな手術を終えた祖父から言われた言葉を思い出しました。

「お前が結婚するときに渡そうと思って、お前が産まれときに100万を用意した。それを渡すまでは死ねない。」

結婚。まだ真剣に考えなくていいやと思っていたら、気づいた時には周りがどんどん結婚していっていました。一方自分は、結婚できる気配もないし、正直する気もあまりありませんでした。それが「どうせできないのならしたくないと言う」的な自己防衛なのかはたまた本心なのかは、自分でも分かりません。整理ができていない、と言った方が適切でしょうか。

思い返せば、自分はこれまで平凡な人生を歩んできた部類に入るかと思います普通に大学を出て、普通に就職をして。これであとは「普通に結婚をして子どもができれば、どこにでもいる平凡な人間の完成です。そしてそれこそが、祖父を始めとした身近な人々、そして両親の願いというか、期待なのではないか、と思っています

先ほど「平凡な人間」と書きましたが、現代日本において、それが「平凡」でなくなりつつあることは分かっています。未婚率のデータを見てもそれは一目瞭然で、もしかするとあと数十年すれば、結婚している人の割合がどんどん下がって、最終的には「結婚」というかたち自身現在のそれとは異なったものとなっているかも知れません。

ただそれでも、結婚することが祖父を始めとする身近な人々、そして両親の期待に沿うことだろうな、ということは変わりません。客観的データを持って結婚の不必要性や困難さ、あるいはリスクを説明したとしても、そしてその説明を彼らが理解して自分結婚しない(あるいはできない)ことに納得してもらえたとしても、彼らの期待に背くことには変わりません。そして、それはたぶん、とてつもない親不孝なんだろうな、と思っています

なんとかして恩に報いたい。みんなの喜ぶ顔が見たい。そのために何かしなきゃと思う一方で、こんな自分果たして結婚できるのか、とも思っています。焦燥と無力感とが募る、そんな日曜日明日から会社です。

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