なぜ、女子はこじらせるのか
https://note.mu/yuuuuuiiiii/n/n5873e003b1ea
何か突出して優れた点がある人々や、あるいは多くの点で平均点前後を確保し大きな欠点もなく平凡(以上)に社会で生きることの出来る人のことは省き、
また先天性後天性にかかわらず(福祉の対象になり得るような)障害を持つ人のことも省き、そして残った少なくない人々こそが社会を考える上でもっとも重要な位置にあると思う。つまり人よりも少し劣った人々のことだ。
日頃そう考えている自分にとって上記の記事は大変興味深かった。
勿論学生時代や青春時代のヒエラルキーがそのまま社会に移行するわけではないが、実際はそうなることも多いだろう。
つまり社会的成功(地位や金銭にもたらされるもの)と人間関係的成功(家族や友人によりもたらされるもの)だ
前者は知能や度胸、学歴などがあれば得やすくなり、後者は容姿があれば得やすくなる。勿論人間性が重視されるのはどちらも同じだ。
そしてもしこの二つのどちらかしか得られないとするなら、多くの人は後者を選ぶだろう。
後者に必要な容姿、そしていわゆるコミュ力はなかなか努力では改善されにくいものだからだ(勿論、特にコミュ力は前者にも必要だろうが他で補うことも十分可能だ)。
ならばその点で恵まれなかった人々はどうするか。
現代の日本において、特に若い男女の間で一番の差異を生むのはここだと考えられる。
男性は前者を頑張ることでそれを異性に対する魅力とすることができるが、女性にはそうすることが難しいという違いだ。
男性は一方向の努力により二つの面での成功に近づけるというのに、女性は両方とも努力しなければ両取りは困難なのだ。
仕事のできる男性にはATMとしての魅力だけではなくきっと性的な魅力も感じられるだろうが、女性の場合はそうは感じてもらえないに違いない。
結局のところ、”男はかわいい女が好きで、女はカッコいい男が好き”という構図を解体しない限り『本当の』男女平等は訪れないのだろう。
そしてその構図は感情的で個人的な趣味である以上、無理に変えることも決して出来ない。
それこそ長い年月をかけて変えていくしかないのだろうが、恐らくこの構図は数千年以上も続いてきたものであろうしその道程は果てしなく険しい。