という内容のセリフをどこかで見たことがある。うろ覚えだけれど。
ありとあらゆるフィクションの物語において「リアリティが無い」という駄目出しほど野暮なものはない。例えばドラえもんの存在をあわてず受け入れる野比家やその周辺は不自然だ、とか、トムとジェリーは物理法則を無視している、だとか。ここで、ココロの問題として、物語の楽しさがリアリティという野暮を上回っているうちは、いくら野暮が頭の片隅に浮かんだところで影響はない。ご都合主義だろうが、物理的におかしかろうが、燃えるものは燃えるし、ときめくものはときめく。オイオイ無茶苦茶な理屈だなあオイ、と思いながらも、すげー! すげー! かっけーキタァァ!! なものは、そういうものだ。「野暮」と呼んだのはそのためだ。わかってるよ、でも面白いんだもん。リアリティだとか嘘くささというのは、没頭させられた時にはそういったものである。
悲劇は、野暮が勝ってしまったときだ。「いやいやいや…それはないから…」と、いちどココロがジャッジしてしまったら最後、どんなにストーリーが盛り上がってもそれはどこまでも空回りするだけである。緊迫が興奮に転じ、ピンチの主人公がまさかの大逆転をみせる、その光景を「いやいやいや…それはおかしいって」とシラケて見ることになる。悲劇である。
さらに悲しいのが、このときの「つまんなかった! あんなの有り得ない、都合が良すぎる、シラケけたわ。駄作駄作」という評価は、その作品を楽しめた人との間で水掛け論にしかならないということだ。楽しめた人というのは、その野暮にもちろん気がついている。そして、その上で、「だからなに? わかってても面白かった!」と思った、そういうことなのだ。繰り返す、その野暮に気づいているのだ。そして自然と乗り越えている。
そしてこの断絶を超えることは極めて難しい、と思う。例えば見落としていた野暮に気づくことで、没頭していた人がシラケることはあるだろう。しかし、一度シラケた人を没頭させることは、本当にその物語が面白くて、「悔しいけど…」という前置きをつけさせるくらいのことが必要なのだ。
と、自分自身が面白いと思った作品について「あんなの嘘だ」と本気でイライラしている人をツイッターでみて思った。その人はいかに有り得ないかを丁寧に説明していたけれど、没頭側にとっては「うん、知ってる」という話だった。ただ、あぁこの作品を本気で不快に思う人がいるんだなぁというケチつけられたような気持ちだけ感じ、一方で自分自身も、そういえばあの映画化したアレはあり得なさすぎてやめてほしいと思ったなぁ、としみじみ思ったので、人によって物の見方や感じ方は違うしそれを変えるということはお互い難しいんだなぁと当たり前のことを確認した次第でした。
はい釣り
長文の割に内容がすげー薄い。 読んで時間損したわ
いうとおり、物語にリアリティがなくても面白ければ問題はないんだよ。 つまらなかった人の脳内で起きてることは「しらけた(=つまらなかった)→リアリティがない部分がいちいち...
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