よく「反対するなら対案を」と言うけど、実際には「対案がなければ反対するな」という意味で使われてて、これっておかしくね? と思ってtwitterにつらつら書こうかと思ったけど長くなりそうなのでこっちに書いてみる。
仮に、ある課題(q)を解決するためにAさんがa案を出した場合を考える。だいたい物事にはメリットとデメリットがあるので、これらをそれぞれa+とa-とする。つまりAさんはa+>a-と判断してa案を主張している。が、たいていはa-を隠してa+のことしか言わない。
これにBさんが反対する。Bさんはa案のデメリット(a-)を挙げる。Aさんは、想定していたデメリットならばa+>a-であることを説明する。想定していなかった場合、a+>a-となる根拠を探すなり、自力でa案を改良してa′にするなりして、a+>a-と言えるようにする。いずれにせよ、a+>a-である限り何の問題も無い。
a+>a-かa+<a-かで判断が分かれた場合、何を根拠にどういう判断基準で大小関係を判断するかを議論する。ここに「対案」が出てくる余地は無い。
問題はa+>a-と自信を持って言えない場合。qの解決が目的ならば、Aさんがまずやるべきことは決まっていて、「なんかいいアイデアない?」とBさんに訊けばいい。これがつまり「反対するなら対案を」と言う場面。対案(b案)があれば同じようにメリットとデメリットを比較してa案と優劣を決める。
ではBさんに対案が無い場合。これはもう、a案を実行しない場合を仮にb案としてみるしかない。そして上と同じようにそれぞれのメリットとデメリットを洗い出して評価する。a案もb案(=a案を実行しない)も、それぞれできるだけデメリットを最小化するように調整する。そしてどちらを取るかを決める。最終的には多数決になるかもしれない。逆に言うと、ここまでやらずに多数決で決めてはいけない。
……あれ? Bさんを黙らせたり無視したりする必要無かったね?
つまり、全部メリット/デメリットと優先順位の問題に落とし込んでしまえば論点や残された課題がクリアーになるし、反対する資格みたいな珍妙なルールを持ち込む必要もない。むしろ反対者はデメリットをはっきりさせてより良い案に磨き上げてゆくために必要な存在と言える。
長々と書いたけど、要するに、問題の解決を目的として議論するならば(←ここ重要)対案の無い反対意見を封じる必要は無い、というか害にしかならないと思うわけです。
対案が必要なのは、例えば政党間でマニフェストを持ち寄って討論する場合みたいに、優劣や勝ち負けを決めたい場合だけじゃないでしょうか。あまり生産的じゃないけど。
【最後にまとめ】
字数制限がないとダレる。
(2013-05-21 1:00追記)
こういうこと書くとあまりにも無茶な意見にも耳を貸さなければならないのかと言われるかもしれないけど、逆。同じ土俵に引き摺り上げて、同じルール、同じ条件で叩けばいいということ。案がダメでも指摘に一理あればそこだけ残せばいい。
(さらに追記)
後から気付いたけど、「意見」を発言者と紐付けられた一つの「パッケージ」として捉えるならば、「無責任」という反応が出てくるのも理解できる気はする。例えば自民党の経済政策を批判するのに民主党のマニフェストがそこに触れていなければ、任せられないとは思う。それを責任と呼ぶかは微妙だけど。
反対するだけなら対案は必要ないよ。 でも世の中に出てこないでね。邪魔だから。 対案の無い反対は増田や2ちゃんねるにでも書いておくといいよ。
たとえば、xを変える主張をする連中に対して反対の立場を表明した場合、 多くはxを変えないということ自体が対案になりうるんだけど。 つまり、わざわざ主張する必要がない。
Bさんが、a-の主張をすると同時に、a案を実行しない案(b案)のデメリットb-をちゃんと提示していればいいですが、 現実は、どちらかというと世の中の「反対者」はb-を隠したり、もしく...
Bさんが、a-の主張をすると同時に、a案を実行しない案(b案)のデメリットb-をちゃんと提示していればいいですが、 現実は、どちらかというと世の中の「反対者」はb-を隠したり、もしく...
課題qの解決が急務な状況である、ということが前提(AさんにもBさんにも共有されている)だった場合、 それは何を意味するかというと 「課題qに対して何も手を打たないことは、誰にとっ...
ちょうどこんな話が http://anond.hatelabo.jp/20130520233205