私は子供のころ友達が全然おらず、やることもないし寂しかったのでいつも本を読んでいた。
本は面白くてそういうことを紛らわす役にはたつのだが、あまりに面白い本だとその世界に没入してしまって、しばらく戻ってこられないことがある。
するとかえってつらい。主に物語の本のはなしだが、終わってしまうのが悲しいのだ。
いい話ならまた最初から物語を読んだらいいじゃないという意見があるかもしれない。
そんなことすると、既に物語が終わってしまったと感じてしまい逆につらい。
どんな昔に出た本でも、最初に読んだときは自分にとってはリアルタイムだけど、二度目は振り返ってるだけなのだ。
子供のころ好きで告白できなかった人の写真とか見返したら、あの時代はもう二度と戻ってこないんだああああとなってつらいだろう。
それと同じである。
好きなんだけど、もう会えないから思い出したくないみたいな。
続きを読みたい。
こういうつらい感情は本に限らず映画とかよくできた物語になら何でも発生し得る。
いいコンテンツほど後がつらいので、最近はもうあんまり本も読まなくなってしまった。
androidアプリとかwebアプリづくり。
だから、本は人とのコミュニケーションの代わりというか、コミュニケーションをモノに閉じ込めたようなものだったのだ。
プログラミングも私にとっては人とのコミュニケーションの代わりになっていると思う。
これのいいところは、他人の作ったもの(プログラミング言語)を読み解いているようでもあり、創作的な活動でもあるということだ。
プログラミング言語なんて、わかったと思ったころに仕様が変わった次のがでるし、ソフトウェアのアイディアも際限がない。
しかも、つくったソフトウェアを公開すれば、それを介した人とのコミュニケーションもできるかもしれない。
すばらしい。
すばらしいなあ。
追記1
じゃあ私は本を書いてもよかったのかな。
でも本を書くって自分との対話という感じがして寂しいなあ。
追記2
プログラミング言語を言語学的に研究した論文を昔いくつか見つけた。
こういう何かモノなどをかいした適度に隔てられたコミュニケーションについて考えてみるのは面白い。
コミュニケーションは言葉なり身振りなり本質的に何かを介したものというはなしもあるなあ。
追記3
最近こうやって思ったことを書くことをはじめた。
すごく落ち着く。
一人ぽつねんとモニターにむかってるとこを想像すると、本人は賑やかでも外野としては寂しいようにしか見えないよーな。でも、素敵な考え方をする方だなー。 pythonのインタプリタ...