2013-02-16

http://bacolla.jp/remark/remark199904.html

制作者だけがコップの中」というのは、そうだと僕も思っていますプロフェッショナル意識はあるけれども、コップの中で「クオリティー」とか「広告グローバルスタンダード」とか言って、その意識マーケティングとも社会ともリンクしていない。そんな彼らを"古典芸能作家"と僕は呼んでいるんですけど、そういう時代は恐らく15年前にもう終ってしまったと思っています。営業やマーケティングも、「制作とういうのは結局、わけ分かんないから」とあきらめている。長い間、広告クリエーター表現至上主義でやってきましたが、やはりそれを一回忘れないと、2000年以降はやっていけないだろうと思っています広告をつくる環境が大きく変わってきた根本には流通の台頭がありますコンビニエンスストアは全国で4万店に近づこうとしていますセブンイレブンだけで七千七百店以上、ローソンも七千店を超えています

例えば、毎年二月に飲料の新商品はほとんど出るわけですが、メーカーは、こういう商品をつくりたいとコンビニエンスストアバイヤーのところに持っていって、そこで「面白いね」と言われない限り、商品開発ができないというところまで来ているといいます。以前、我々がある飲料メーカーに「そのネーミングもパッケージもまずいので、こういうふうに変えませんか?」と提案したことがありましたが、「社長の決裁を取っているから変えられない」ということで通らなかったことがありました。でも、今は、コンビニエンスストアバイヤーが「それでは人々はつかめない」と言うと、ネーミングもパッケージも変わってしまう。もうそういう時代なんですね。ある意味では、メーカー社長よりもコンビニエンスストアバイヤーの方が強い時代になってきたということです。

また、コンビニエンスストアのようなところでは、棚落ちという問題があります。"週販"と言って、一週間に平均店舗一定の本数以上売れないと棚落ちする。限られた面積に商品を置くとなると、売れる商品が中心になる。新商品でも売れないとなると、一か月以内に棚落ちになります。棚からなくなると、その商品のコマーシャルは完成していてもオンエアされない。僕もそういう目に遭いました。春編と夏編をつくっていたのですが、棚落ちして夏編はオンエア中止です。

から、「流通が強くなり過ぎたから、いい広告ができなくなった」という人たちがたくさんいるんですね。僕が「古典芸能作家」と言うのはそういう人たちです。モノを売る場が強過ぎるとか弱過ぎるといった話にはまったく意味はありません。厳しい流通現場で人がその商品を手にするための有効コミュニケーションは何かを考えなければ、変化した市場に対する広告表現は提示していけません。

一昨年のカンヌ広告祭で日本が一作も賞を取れなかったことで、クリエーターの間でも議論があったそうですが……。

広告は当然、モノが売れたことが評価の大きな基準であるべきなのに、クリエーター世界ではモノが売れなくても広告が評価されるという変なところがありますカンヌは確かに話題にもなり、クリエーターの間でも議論がありましたが、「別にカンヌで賞を取る必要ない。我々のマーケットである日本でちゃんと棚落ちしない、商品に対してサポートできる広告表現になっていればいい」というのが僕の考えです。

一昨年からの議論は、広告表現とは何だということが非常に未整理のまま語られていたと思います。モノを売るための広告と「ここに私は居続けてますよ」というブランドを維持するための広告は違うはずなのに、一緒のところで論じられているのが問題だと思うのです。 例えば、商品情報は十分知りつくされたレンズ付きフィルム別に商品力を語る必要はなくて、ただ「ここに居続けていますよ」という"マインドシェア"が大切です。それを買う時に、何となく○○フィルムが好きだからということであれば、そこに面白い広告が成立する。そのブランドを持続させるための広告と、流通のようにその場その場で売り切っていく広告というのはマーケットが違うはずなんですね。

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