記述対象と記述者が実際には違うということ。これは「ネタ/ベタ」問題とも通じるだろう。
つまり、否定的に捉えられがちなある対象の革新性を持ち上げることによって利益を得ているが、記述者はその記述対象とは違うということ。
phaさんはニートに対して新しい意味付けを行ったが、実際phaさんはニートを抜け出せる、抜け出しつつあるということ。
古市憲寿は貧乏まったりな若者に対して新しい意味付けを行ったが、実際彼は有能な起業家と一緒に会社を経営し、学者としても成功を収めているということ。
みうらじゅんは童貞に対して新しい意味付けを行ったが、実際みうらじゅんはヤリチンであるということ。
僕はイケダハヤトに「お前は年収150万円じゃないし、コンサルとか講演で稼いでるじゃん」と言いたい訳ではない。
「お前はホームレス生活してないじゃん」という批判に対して、坂口恭平は「大リーガーの記述をするのに、大リーガーである必要があるのか」と返した。
なるほどと思ったのだが、これは違う。
別に大リーガーの生活の取材をしても、ホームレスの一般的な取材をしてもこのような問いは出て来ない。
なぜ、このような問いが投げかけられるかといえば、ホームレスを一般的な考えとは違い賞賛すべきものと描いているからだ。
社会的強者が社会的弱者を賞賛する際に「お前はその生活してるのか」という問いがなされる。
本当にそんないいものであったら、お前はやってるんだろうな、実際やってないじゃんと思うのが世間的判断というものだ。
モバイルハウスを提唱するのに、モバイルハウスにその人自身が住む必要はないと僕は思う。
例えば、鬱期であったら坂口恭平はモバイルハウスでゼロ円で家族で生活などできないだろう。
そういった病気や税金や保険料や彼女とのデート代といった身も蓋もない現実ということも同時に見なければならない。
それを込みにして、彼らの「パフォーマンス」を受け止めなければならない。
一般的な価値をひっくり返す言説を信じることに伴うリスクを知っておかなければならない。
(中略)
彼らが行なっているのは、社会的「強者」からなされる「弱者」を「弱者」ではないとする正当化であり、慰撫だとも言えるだろう。