2011-02-19

学力低下大学のあり方

構造

学力低下に関した議論はもはやふたつの二元論に落ち込んだと言ってよい。

ひとつは「学生馬鹿になった(学力低下は正しい) vs 学生馬鹿じゃない(学力低下は正しくない)」という対立。

もうひとつは「大学以前までの教育に問題がある(学力低下は正しい) vs 教育内容も問題ない(学力低下は正しくない)」という対立。

前者は人間を見て、後者システムを見て判断している。

この手の問題は諸説あるが、概ねここまで単純化されていると思う。

関連した議論に就職の問題もあるが、この手の主張はまず、こちらの問題でどういう主張をしているか、ということを把握しておくと良いと思う。

つまり、就活制度システム面で主に問題があると主張する人は、こちらの方でもだいたいシステム的不全を主張するはずであるし、学生に問題があるという人は無論学力低下も肯定しているはずだ。

大学とは」を論じるときに見る二元

もう一段階前に遡れば、「そもそも大学とは何か」というところになると思う。

研究の場、学問の場、教育の場、いろいろ言いたいことはあるだろうが、それは「選民」によるものか「万民」によるものか、というところがもっとも立場を異にし、旗色を明らかにするものだと思う。

たとえば、選民的機能を求めるものは、スクリーニングによる選別、歴史的なブランドによる選別(一種のサラブレッド)を肯定するだろうし、大学全体にそれを強制するだろう。そこに通うものはもちろん同年度生の優れたものにのみ与えるべきだし、すべてにそれを求めるのは平均的知性の低下として糾弾する。そして偏差値の低い学生が通う大学は不要であると切り捨て、万民に開かれた大学放大サイバー大)は学士の安売りだとして非難する。通底するのは、大学大学生には望まれるべきハードルがある、ということだ。それは過激になると学問それ自体にも矛先を向け、よく文学哲学系や現代のカルチャーを扱う学問などが犠牲になる。

また、万民に開かれたものを求める場合は、サイバー大などのようなものはもちろん、できる限り多くの学生に、望むならば与えようという姿勢を持つ。

金銭的なハードルさえも、給付金で賄おうという立場をとり、多くの学問を認め、可能なかぎり多くの学生も認めようとする。学歴ロンダリングにも冷めた視線を注ぐのはだいたいこちら側である。彼らに共通するのは、包摂主義であり、ハードル存在しないか、できる限り低くすることを望む。

これを先に挙げた人とシステムの目線で(自分で言うのもなんだが)分かりやすくまとめれば、

大学は一部の優れた人間が通うところ vs 大学は誰もが通えるところ」

大学生は高等な知識を有していなければならない vs大学生は高等な知識を有している必要はない」

という構図となるかと思う。

結局

これをさらに突き詰めれば、「規範と自由」の対立まで遡ることができるのではないだろうか。

経営戦略として自由な大学像を目指すことを認めるか、淡々と上澄みの10%だけに通わせときゃいいんだよ、とするか。

実際は多くの人間がグレーな思想であり、ここまで極端な人間は少ないだろうが、あえて型枠に嵌めるとするとこうなるかと思う。

あるべき姿を創り、それに合わせようとするのか、今そこにあるものこそがあるべき姿だというのか、ということだ。

結局のところ立っている前提が違うのだから話が噛み合うわけがない、というのが私の感想である

バカを見下して優越感を味わうなりなんなり、好きにすればいいんじゃないでしょうか、というぐらいである。

整理

一貫した主張をしているという前提に則れば、

ということになろうか。

いずれにせよ、熱心な方々であることには間違いない。個人的には彼らのサポートは心配である

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