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2012-10-23

http://anond.hatelabo.jp/20121023110318

ところで、死が絡む愛はすなわちそれらすべて萌えなのか?

古典文学とかを某巨大掲示板ネタ風に紹介するとき「○○って要するに××萌えからね」とか称されることあるけど、あれは割と的を射てるものがあると思う。

まり、古今東西にて死が絡む愛として紅涙を絞ってきたいくつかの愛は萌えである可能性がある、と。

ぶっちゃけ心中物とかかなり萌えが入っていると思うの。一時的に恐慌状態みたいな忘我に陥って、その果てに死ぬからか?

ところがその一方で、死に向かっているにも関わらず生き延びる愛のにおいがするものがある。ような気がする。

えーと、『うたかたの日々』とか? 死に向かっているというよりは、死に抗い死から逃れようとして失敗した、敗北した生き延びる愛の物語

ここまで考えておいてふと気付いたけど、これはひょっとして萌えが死を甘美にするというよりは俺が死ネタ萌えなだけで、その性質に死を絡めない(けど愛ではない)萌えとかが他に存在するような気がしてきた。

犬猫萌え~とか言ったり街で見かけた子どもがかわいくて萌え死ぬとか言ったりみたいなそういう弱きものへの保護欲の比重大分高い萌えとかが。

ちょっと、混乱してきたので続きはまた今度。

2010-12-12

不定形な私

小便の切れが悪い。

残尿感とか言うほど大袈裟なものではないのだが、んー…果たしてコレって残らず排出されたと見てよいものか。という懸念というか、不明瞭な感じがいつもある。

そこで便器の前で排尿が終わった後の時間を長く取り、微妙に屈伸運動したりつま先立ちを繰り返したりして、これで完全に排泄されたのだという爽快が訪れるのをいちおう待ってみる。けどもう長らくその爽快は味わっていないようだ。仕方なくしまい込む。やれやれと立ち去る。この一連の儀式は我ながらなかなかに哀しくて間の抜けた絵面である。とてもよろしい

それはそれとして、この不甲斐なさが一体いつ頃からことなのか今ひとつはっきりしないのである子供の頃は小便を終えた後、もっとすっきりした感じがあったような気はしている。けど意外にそうでもなく、すっきりしてなかろうが格納した後に垂れ流そうが子供特有の無頓着で意に介さなかっただけという話もありそうである。長じて快便を体調良好のバロメータとする意識を持つようになったせいで、不健康や衰えとは無縁であったはずの子供時代を美化しすぎているのかもしれない。「昔は良かった」は容易に陥る思考の陥穽だ…って、要は記憶を辿ってもよく分からないということが言いたいである

似た話で起き抜けなどに鏡を覗くと、そこにある皺にふと違和感を覚える時がある。あれ、こんな所に皺などあったっけ?という疑問が浮かぶのである。寝相の関係で圧迫されてできた皺が一時的なクセになるのはよくある事だけど、そうではなくて明らかに顔の一部となっている。すると昨日今日でホイホイできたとは考えにくい。ということはむろん前からあったものなのだという結論になる。けれどそれが一体いつ頃からそこにあったのか、今ひとつはっきりしない。

どうも近ごろ、私にとっての過去というものが加速度的に曖昧でおぼろなものになってゆくようでそこはかとなく恐ろしい。これはあったはずの出来事を忘れてしまうというだけの話では収まらない。

それまで「当たり前」どころか「前提」ぐらいにすら思っていた、私なりの物の見方や感じ方。そういう、いわば私の存在の中核となっていたもの、「私はこういう人間だ」と規定していたもののかたちでさえ次第に風化して崩れていっているように思われてならないということである。私という人間の輪郭が段々とぼやけていっているということである

大きな喪失を感じるのが、そのときどきで抱いた感情や内的体験の味とか匂いのような質感が失われてゆくことである幼児の頃の私は、なんでもないような絵や光景によくメルヘンな気分を味わった。子供の頃には、些細な風景写真映画によく世界の広大さそのものへの憧憬の念のような感情が湧き起こった。

気恥ずかしいが、そういう「ときめき」がどんな感じであったか、さかしらに言えばときめきクオリアとでも呼ぶべきものが思い出せない。ごくたまに、なにかの偶然がトリガーとなって自分の中によみがえる(匂いがきっかけとなることが多い)ことがあるまで、そんなものがあったことすら忘れてしまっているのである。けど私にとって、そういうものこそが生の実感であったはずのものだった。どうも今の私は魂を抜かれた抜け殻が生きているかのようである

ご存知のとおり、人の肉体は固定されたものに見えて実は流動的である代謝によって肉体を構成する物質が絶えず入れ替わり、我々がふだん石や木材のような固体のイメージで捉えている骨でさえ骨代謝という働きにより成人3年で完全に入れ替わる。言い換えれば3年前の私と今の私は正真正銘別物である生命とはモノではなく、コトなのであって、渦とか波とかの現象と質的に同じなのである。こういう話を聞くにつけその確かな拠り所の無さ、脆さ儚さを思わずにはいられない。うたかたに例えた古人はまことに正しい

まして人間精神のような無形のものの流転の様は推して知るべしなのである。「私はいだって私だ」というのは単純に言ってただの錯覚で、絶えずアメーバのように形を変えているイメージがより近いと私は思う。自分では一定の形を保っているように思っていながら、そのじつ絶えずなにかが流出し、知らずになにかが流入し続けているのである。朱に交われば赤くなるのだ。

下り坂の年齢にあると、その流出してしまったものの大きさのほうが堪える事実である。流入してくるものも無くはなかろうがどうも良いものには思われない。

失ってゆく旅路。寂しいものである

2009-08-31

鹸あく

菠薐草ほうれんそう

目眩くめくるめく

紅娘てんとうむし

馴致じゅんち

人熟れひといきれ

旗幟きし

為人ひととなり

俗諺ぞくげん

諫言かんげん

猫糞ねこばば

禦ぐふせぐ

僑るやどる

大鋸屑おがくず

些細ささい

泡沫うたかた

吹聴ふいちょう

三槲みつがしわ

侠客きょうかく

海豹あざらし

狢むじな

嗽うがい

苦参くらら

鉄桶てっとう

入内じゅだい

羸馬るいば

太々しいふてぶてしい

鴛鴦おしどり

紗うすぎぬ

弛むたるむ

背馳はいち

蔑ろないがしろ

乍寒水さかんすい

翳すかざす

からむし

碑いしぶみ

湛えるたたえる

蟋蟀こおろぎ

鴫しぎ

奢侈しゃし

鋤除じょじょ

洋燈らんぷ

跪くひざまづく

矜持きょうじ

蠕動ぜんどう

膾炙かいしゃ

所縁ゆかり

嫉むそねむ

讒言ざんげん

馘首かくしゅ

嘶くいななく

栖すみか

倦むうむ

煽てるおだてる

所為せい

躊躇うためらう

目眩めまい

俯くうつむく

櫛比しっぴ

車前草おおばこ

佳肴かこう

隘路あいろ

喇嘛らま

快哉かいさい

瑕疵かし

勤しむいそしむ

郁しいかぐわしい

公孫樹いちょう

和布わかめ

蝌蚪おたまじゃくし

仕りつかまつり

苧環おだまき

顰めるしかめる

2008-11-19

泣きそうな名前が沢山ある。本には。

良い本のタイトルというのは

それ自体がひとつの芸術品であるかのようにすばらしいと思うのですが、

そのような吸引力を持った音楽アルバムタイトルって、ないな、と

気づいてしまいました。

…私にとってはね。

それって結局、わたしにとっては

本>>>>>>>超えられない壁>>音楽

なんだろうな。

ちょっと哀しいけど、まあ、いいさ。

だってこんなにいいタイトルが私にはいっぱい。

泣きそうになる数々のすばらしい名前。すばらしいな、ほんとに。

「わたしを離さないで」

フォークの先、希望の後」

パン屋襲撃」「パン屋再襲撃

うたかたの日々(日々の泡)」

歌舞伎町ミッドナイトフットボール

2007-04-06

うたかたこうほ

anond:20070406202546

情緒があっていいですね

「ほうまつ」よりも「うたかた」のほうが、言われる側の気分も少しはよくなるかも

言えない

泡沫候補うたかたこうほ)って読んでいたなんて今更言えない……。

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