はてなキーワード: ドフィノワとは
従兄の慎一くんは、私の父の兄の子だった。彼は自分の父親のことを、かならずしもふざけているわけではなく、よく「ご当主」と呼んでいた。
大学ではゴルフ部の主将を務め、それとは別になんだかよくわからないイベントを季節ごとに催すインカレサークルも創設していて、むしろラグビーよりはそっちで有名だったと聞いた。
私が入学して一週間とたたないうちに、あらたまって訪ねてきた彼はお茶を共にした。
蜂蜜入りの菓子パン、アンチョビをのせたトースト、今はなきフラム・ド・フラムで買ってきた胡桃入りのドフィノワと、たっぷり平らげてからタバコに火をつけて籐椅子に体を沈めた彼は、大学生活で私が守るべき心得をつぎつぎに並べてきかせたが、その忠告は大学生活のほとんどすべての分野にわたった。
わたしは今でも、そのときの彼の言葉を一語一語、あらかた暗誦できる。
試験では、優になるか不可になるか、どちらかだな。中途半端じゃ無意味だ。良になってみても無駄だよ。
自分の専攻なんか無視して、最高の講師の講義ばかりとるんだ――例えば、アークライトのデモステネスとか……。
服装はね、なるべく立派なのがいい。ユニクロのシャツにチノパンなんていう格好はいけない。手頃なショップで見立ててもらうんだね。
……サークルはさしあたりボランティア関係に入っておいて、並行して自分の興味のあるサークルも兼部して、二年の初めに後者に専念するといい。文化祭に関わるのはやめておけ。
……地方の人間とはつきあうなよ。田舎の金持ちより都会の中流家庭のほうがまだ付き合いやすい」
向かいの建物の切妻の向こうの空が夕日にかっと赤くなったと思うと、しだいに暗くなってきた。
私が暖炉に薪木を足して電灯をつけると、光のなかに従兄の上品なロンドン仕立てのゴルフズボンと、チェック柄のネクタイが浮かび上がった。
「……大学の先生たちを、中学や高校の先生みたいに扱っちゃいけない。近所の坊さんに対するような態度で接することだ。
……二年目の半分は、一年目にできた好ましくない友だちと手を切るのに使うことになる。
……K大の連中には気をつけろよ――ーあいつらはみんな不愉快な口をききかたをするホモ野郎だ。と、いうより、あの手の連中にはいっさい近づかないことだな。ろくなことはないよ……」
帰りがけに、彼はさらにこう言った。
その部屋は広くて快適で、大学からも近く、新入生の身でこんな部屋にあたった私は幸せものだと思っていた。
「大学に近すぎる部屋に入ったばっかりにだめになったやつはいくらでもいる」と言った従兄の声は実に重々しかった。
「色んな人間が気安く入ってくるようになるんだ。翌日に使う教科書を預けていっては、翌日の昼に取りによる。君は缶チューハイをだしてやるようになる。そして気がつくと、大学じゅうの不良学生にただで居酒屋を開いてやったような結果になるんだ」
私には、彼の忠告をひとつとして正直に実行した覚えはない。すくなくとも、部屋はぜったいに変えなかった。窓の下にはニオイアラセイトウが生えていて、夏の夕暮などには、その香りが窓一杯に流れこんできたのだから。