2017-05-09

時代劇水戸黄門」が健全民主主義を阻害する

日本では時代劇高齢者を中心に人気を博している。

特に、40年以上放映され、今なお毎日再放送されている「水戸黄門」は、その代表である

今回はそのストーリーいかに非民主主義的、非現代であるかを検証する。

水戸黄門主人公である水戸光圀の一行は、「越後ちりめん問屋」と身分詐称諸国を漫遊しているが、その先々では必ず商人の不当な物価の値上げや、代官の課す重税に庶民が苦しめられている。それを聞いた一行が、屋根裏に潜入し、また色気を使って捜査証拠をとる。そうして悪事を暴いた「越後ちりめん問屋」は、悪事を起こした者の怒りを買い、刀を交えることになる。最大の見どころであるチャンバラシーンのあと、権威象徴である「印籠」を見せつけることで、「先の副将軍である自身の正体を明かす。それを見た者はみな平伏し、悪事を働いた者は自分の過失を認め、登場した藩の者がその身柄を拘束する。最後は一件落着と一笑しまた旅を続ける、というのがストーリーの梗概である

この作品には

権力者の悪はさらに上の権力者しか裁けない」

庶民は無力で虐げられる存在である

権力者はどんな手段を用いても許される」

という世界観が透けて見える。これについて持論を述べる。

まず、「権力者の悪は更に上の権力者しか裁けない」という点について述べる。

本作の世界では、いつ来るかわからないような、国家から派遣された、さらに上の権力者しか悪を懲らしめられないことになっている。水戸光圀はその土地の者でなく、また問題解決した後は旅を続けてしまうため、対処療法的な解決しか行えない。地方にも自浄能力がなく、一回水戸光圀問題解決したあと、また同じような悪事不正が起き続ける。地方はそれを解決する術を持たないため、水戸光圀が来るのを待っているだけである住民当事者意識民主主義原理が欠落した「他人任せ」の政治は、今日日本の政治通底するものがある。

また、ある放送では、朝廷中納言悪事を裁いた際、「私は徳川の家来ではないので従わない」と反発したが、更に上の役職である左大臣が登場し裁いたという回もあり、「権力者の悪は更に上の権力者しか裁けない」という世界観をより強固なものにしている。

次に、「庶民は無力で虐げられる存在である」という点について述べる。

水戸光圀が「越後ちりめん問屋」と詐称しているにもかかわらず、庶民からは色々な苦情が持ちかけられる。旅する隠居にまで相談しなければならないほど、それほどまでに事態悪化してしまっていることがわかる。作中ではこのように圧政不正に苦しめられる庶民の姿がよく描写されるが、反対に実力行使に出ようとする庶民水戸光圀が宥める場面は皆無である。先述した住民他人任せの意識がここでも顕在化している。

欧州市民革命においては、圧政に苦しんだ市民の流血によって民主主義が獲得されたが、日本においては明治以降主権者の変更は市民革命ではなく、支配者同士の権力争いの結果に過ぎない。このように市民自らが流血し民主主義を獲得した経験がないことが、権力者任せの日本人気質形成しているのではないか

そして、「権力者はどんな手段を用いても許される」という点について述べる。

苦情を持ち掛けられた水戸光圀の一行は、全員が証拠裏付けのために捜査を行うことになる。しかし、その捜査方法卑劣である。「越後ちりめん問屋」と身分詐称した捜査は、当然警察権を保持する藩の奉行所許可を得ていない。令状なしに現場や物的証拠を取り押さえるという、現在の「法の支配原理からはかけ離れたものであるが、作中では身分詐称私人の警察権行使について議論されることは一切ない。奉行所水戸光圀の一行のおかげで吐かされた自白を聞いた後に、身柄を連行するだけという、警察組織の体をなしていないものであるが、水戸光圀がこれを一喝するシーンもない。

なお、作中で水戸光圀は「先の副将軍」と自称しているが、居候の身であるはずの前任者が悪を裁くことについての是非も議論されていない。これは現在においても、我が国では一線を退いた者が強大な発言力を持ち続ける事例が、政財界ともに存在している。

法の支配原理」「地方自治原理」「民主主義原理」すべてが欠落したこのストーリーを、多くの高齢者再放送毎日視聴し続けている。これでは、日本の政治に対する認識を歪めるものであり、健全民主主義国家としての市民意識が育たないことは当然である

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