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はてなキーワード: 体育館とは

2024-05-20

https://anond.hatelabo.jp/20240520205439

   もりわきは、平成25年7月8日に10工場に入って行ったとき最初は、  おい、新入りらしいな、なんちゃらあんちゃら、他の受刑者あいさつしとけ、という言動から始まったが

   黒羽の刑務官逮捕された時期から黒羽の体育館の2階から見張っていてそこから中傷飛ばしてくることがあったな。そして体育館から10工場までの凄まじい歩行訓練

    しかし、長谷川容貌言動はよく覚えているのだが、もりわきがどうだったかは覚えてないんだよな。受刑者には古儀とかいて、ずんぐりむっくりと言われていたが、顔を見てないからな。

  人工知能で、

         村田になったり、オレタチになったり、色々な形態に変化するが、お前の正体は多分、オレタチではないかと思う。

廃校体育館に住みたいな。

隙間時間ランニングをしたり、跳び箱でも跳んでおけば運動不足は解消だ。

空調がないと夏暑く、冬寒い

それはそう…

2024-05-15

私の両親は放任主義であったので、私は色んな物語背中を追って成長した。家にある本を対象年齢などお構いなしに片っ端から読んでいたので早いうちからどうやら人間は必ず死ぬらしいということを知った。事故、病、それらに気をつけたところで寿命というので死ぬらしい。幼い私の狭い世界の中では老人といえば父方の祖母と母方の祖父母であった。当時の私は血縁関係など知らず、やたら会う回数が多くて、やたら親しげに話しかけてくる親ではない人間、その程度の認識だったが、それでもこの人たちはもう間もなく死ぬのだと思うと堪らなく悲しくて、祖父母宅に泊まり眠る時の「おやすみ」や、帰宅する際の「さよなら」で別れを強く意識してしまい泣くことがよくあった。

しかしその三名の間というのは私が思ったよりも用意されており、私が初めに対面した死は保育園の友人のものだった。友人と言っても同い年ではなく、私がそう認識しているだけだった給食調理員の女性で、友人と思っていたために意識していなかったが彼女も今考えれば当時の祖母たちとそう変わらない年齢だったように思う。

礼儀作法を知らないので何度も何度も棺の中を覗きに行っては泣いた。いくら泣いたところで目を閉じた彼女が横たわっているだけで何も変わらなかった。

二度目は小学校の2〜3年生の頃、またもや勝手に友人扱いしていた女性教頭先生だった。

学校体育館で行われたお別れの会で大きな額縁に入った彼女写真を見た。遺体があるわけではないので前のように泣きはしなかった。ただ、急だなと思った。

三度目は飼っていた猫だった。私が生まれるより前から家にいた猫の女の子しまる。

母が譲り受けて、初めは家の中で放し飼いされていたらしいが兄が生まれた時にケージに入れられるようになり、それからは基本ケージの中がししまるの全てになった。

私は私たちのせいで自由を奪われることになったししまるへの罪悪感からまり積極的に関わろうとはしなかった。

高校の帰り道、同級生数人の本当に心底どうでもいい話に付き合っている最中に母からメールでししまるの危篤が知らされた。どうしてか、私はどうでも良い話を切り上げず最後まで聞いて家に帰った。ししまるは冷たくなっていた。21〜2歳だったと思う。

なぜすぐに帰るという選択をしなかったのか、あんな会話よりもずっと大切な存在だったのに。

私よりも悲しんでいるに違いない母の前で泣くのは躊躇われて、やり場のない怒りと悲しみを階段に座ってやり過ごした。

数年後、くだらない話をしていた内の一人が飼っている猫がもう亡くなるかもしれないというLINEがきた。たしか写真映像うんざりするほど見せられていたが、私はいつも適当に聞き流していたのでどんな猫だったかはこれっぽっちも覚えていなかった。そんな猫が死ぬかもしれないと聞かされたところで正直どうしたものか反応に困ったが、眼前に迫った愛猫の死に動揺して私という藁にまですがる様子に「本当に大切ならこうなるはずだ、お前はどうだった」と問われているような感じがして口の中が苦くなった。

四度目は父方の祖母が亡くなった。同じ家に住んではいもの特に交流はなく、幼い頃から苦手な祖母だった。

祖母の部屋はニ階にあり、私の部屋は一階にある。あの日、夜、二階の台所飲み物を手に入れて自室に帰るという時、祖母の部屋からガタッと物音がして「部屋から出てくるかも」と思い微かに開いた扉を横目に逃げるように階段を降りた。少し経ってから帰宅した兄が「婆ちゃんが倒れている」と家中に知らせて、部屋の中で固まる父、父の代わりに各所へ連絡を取る母、救急車パトカーの音、集まってくる従姉妹たち、その全てを私は凪いだ目で見ていた。

父方の祖母は以前に一度死にかけたことがあり、救ったのは家の鍵を忘れた中学生の頃の私だった。

私は幼い頃から忘れ物常習犯であり、家の周りに民家がないのをいい事に家の前で欲しいものを大声で伝えて家の中にいる人間に取ってもらうというのをよくやっていた。

その日も帰宅したら玄関には鍵がかかっており、また、私は鍵を持っていなかったため外から「鍵開けて」と何度も繰り返し叫んだ。かなり長い間何も反応がなく、どこかに出かけているのかもしれない、帰ってくるま玄関先で座って待っていようかと思い始めた頃、ようやく階段を降りる音が聞こえてきた。玄関の扉が開いて真っ先に伝えられたのが「病院に連絡して」だった。

諸々が終わった後で聞くには、どうやら意識を失っており、私の声で戻ってきたとの事だった。

以降、祖母はこの話を何度も繰り返しては私に感謝した。「綺麗な真っ赤な空間にいたらあんたの声が聞こえた、だから私は助かった、ありがとう」と。顔を合わせるたびに話されるので話すのをやめるようお願いしたほどだった。

死にかけた祖母はその後何もなかったように生き続け、恐らくボケて、兄と揉めることが多くなった。兄が言うには包丁を持ち出してくることもあったらしいが、 真偽は分からない。

そんな揉め事が起こるたびに私は「あの日、私の帰りがもっと遅ければ」「私が早々に呼びかけを諦めていたら」などと思ったのだ。

ガタッと物音がした時に私が様子を確かめていたら、祖母はまた帰ってきたのだろうか。祖母あの日のように真っ赤な空間で私の声を待っていたんじゃないだろうか。あんなに嫌っていた祖母である。「あの時死んでいればこんな問題起きなかったな」とさえ思ったことがある祖母である

そんな祖母葬式で私は涙をなかなか止められなかった。悲しむ資格道理もないのにどうして涙が止まらないのか不思議自分に腹が立ってしょうがなかった。

祖母が亡くなってから父はよく兄妹たちを家に呼び、兄妹たちも呼びかけに応じて気軽に集まる。父も兄妹たちも祖母が生きていた時はそんなことしなかったのに。

五度目はまだ起きていない。

母方の祖母癌治療中で、祖父ボケが始まっているがまだまだ元気にやっている。出来る限り健康で長く生きてほしい。

いつか絶対に五度目がくる。

何度経験しても慣れない死を悲しんだり、悲しんだふりをしていることに気づけないでいたりを繰り返しながら自分の番を待つ。

みんな死んでほしくないな、死にたくないな。

2024-05-10

anond:20240510151658

これは発育の良い女児に置き換えても通じるメソッドやね。参考にしよう。

どんな馴れ初めも何も担任や言うとるやないか行為自体は小4の時に体育館倉庫の片づけ手伝ってって言われてついてったら

突然押し倒されて服まくられてちんちんいじくられてそのまま騎乗位で挿入させられて終わった後に親に言ったらすごく怒られるよ!警察も来るよってバチクソに脅しかけられただけやで

anond:20240510151411

どんな馴れ初めも何も担任や言うとるやないか行為自体は小4の時に体育館倉庫の片づけ手伝ってって言われてついてったら突然押し倒されて服まくられてちんちんいじくられてそのまま騎乗位で挿入させられて終わった後に親に言ったらすごく怒られるよ!警察も来るよってバチクソに脅しかけられただけやで

警察きたんはお前の方やんけっていうね

そんなに言われたって、できません

体育館子供に延々と叱りつけている光景をよく見かけるが、見るたびに気分が悪くなる。

やれ、腰の回転だの、手首の角度だの、膝の伸展だの、ラケットの回し方だの逐一報告してくるが、そんなに言われたって、できません。毎回、違うことを言われて、直せるわけないだろ。そもそもその角度で打つと、不自然な回旋になるから手首を怪我するぞ。

上手い選手が全身の関節の角度を一つずつ調整して、今の形になっていると思っているのかな。正しい意識を覚えれば、自然にそうなるだけで、自然にそうなるように仕向けるの指導だろ。連続した動作とかどうするんだ。全部角度を意識して調整し続けるのか? そんなことしてたら敵はコートの向こうにいるのに、自分との戦いで終わるやん。

しろ正しい練習設計すれば、言葉もそこまで必要ない。正しいか正しくないか子供でもわかるレベルに分解してないから、不自然言葉で補っているだけだろう。

中国武術の直弟子なら仕方ないと思うが、なぜその辺のお母さんが形にこだわっているのか、正直不思議ではあるが、未来競技者を減らすようなことはやめて欲しい。

人に教える前に自分が学んでほしい。解説者と指導者は違うんですよ。指導者は必要な時しかしゃべりません。

2024-05-02

スニーカーマニアではないスニーカー好きの各ブランド評など

はじめに…

ここでのハイテクEVAなどクッション性に優れた素材が使われているランニングシューズを基本とするデザインのものを指し、ローテクゴム底でクッション性がないテニス/バスケットシューズを基本とするデザインを指す。最近ローテクでもアウトソールの上に極厚インソールを載せてクッション性を高めているものも多く出ている点には留意したい。また、シューズについての言説でよく目にする「◯◯(ブランド名)は幅がせまい!」などといったものは「私が履いたそのモデルは幅がせまい!」が正しく、主語デカいってやつだ。大きな違いがあるのでこちらも心に留めておきたい。

NIKE

王者ハイテクが強い、というかフロンティアスニーカーマニアなら何足も持っていて、レアであることがステータス投機対象。スウッシュにいくつか種類がある。昔のが好き。最初オニツカのモデルを模したコルテッツを売ってただけなのにここまでになるとはね。手を使わずに履けるシューズ耐久性がどんなもんなのか気になっている。

adidas

世間認知されてるのはローテク量販店オリジナルスを扱っているのは某マートだけだが、マニアに言わせると量販店モデルスタンスミスは認めないらしい。3本線は元々adidasのものではなかった。なのに他社の平行線には厳しい。ハイテクだとboostシリーズおすすめ

New Balance

世間ではめちゃくちゃ履き心地のよいシューズとして認知されている。必ずと言っていいほどUSA製やUK製(990番代)の信奉者から中国製(500番代)はマウントを取られる?ことでも有名。しか生産国と履き心地には関連がない。クッション素材が重要なんだな。足に合えば/気にいれば安心して買ってください。ロゴは一周回ってやはりダサいと思う(基本的にどのブランドもでかでかとしたロゴダサいとは思うが)。ローテクモデルもあり、こっちのほうがなんか好き。

CONVERSE

キャンバスシューズ界の王者。他にも数多くのブランド(SUPERGA/SPRING COURT/PF Flyers/Kedsなど)があるが淘汰されている。日本流通している商品コンバースジャパン企画製造していて、NIKE傘下の米コンバースとは別の会社であるマニアから言わせると日本商品コンバースではないらしく、ここでもマウントが取られている。CAMPING SUPPLYとかCOUPEとかおもしろいけどね。ジャックパーセルは完成されたデザインよな。

VANS

スケートシーンで一択。他にもブランドはたくさんあるが一強。日本では某マートが商標持ってるので販売されているのは某マートの企画品。若者からの支持が厚い印象。ハーフキャブとかはあまり人気ないのかな?GRAVISとかもあったよね。

PUMA

ローテクSUEDEシリーズがまず思いつく。ハイテクもありボリューミーなデザイン。あ、ディスクプレイズとかあったわ!TSUGIシリーズおもしろかった。他ブランドの台頭により街で見なくなってしまった。あまりスニーカーに力を入れてないように感じる。

Reebok

おそらくPUMP FURYしか世間では認知されていないがハイテクローテクもある。adidas傘下だったが販売不振で売却されてしまった。

ASICS

ランシューイメージが強い。最近ではランシュースニーカーとして履くのがオシャレらしい。少し前まではGELLYTEのようないわゆるニューバランスのようなスニーカーも知る人ぞで履かれていた。個人的にはGELMAIがデザイン/履き心地ともに気に入っている。

Onitsuka Tiger

もはや高級路線メキシコラインをあしらった定番デザインとかなり攻めたデザインの2本柱。日本ではメキシコライン体育館シューズの印象が強いためか、海外のほうが人気がある印象。キル・ビルとか。セラーノはソールが薄いのに履き心地がよくて好き。

MIZUNO

スポーツシーンではすごいソール更新し続けている。ASICSに続いて体育館シューズ?のイメージ日本人にはありそう。最近ニューバランスのようなクラシックラインもあるが街では見かけない。WAVE PROPHECYのような奇抜な?デザインもあり独自性もある。最近はミャクミャクモデルのようにコラボが増えている。IL BISONTEとのコラボシューズお気に入り

BROOKS

日本では無名だがアメリカでは誰でも知ってるランシューブランド。数年前まではスニーカーもあったけど今はランシューだけなのかな?

【SKECHERS】

クッション性に全振りしたコンフォートシューズメッシュ素材が多く、ファッションに取り入れるのは難しいかもしれない。量販店PBが他ブランドパクるのは世の常だが、NBのくせにわりと他ブランドデザインをパクっている。デザインや配色を選ばなければ投げ売りされていることもしばしば。

【Allbirds】

SKECHERSの上位互換

【MOONSTAR】

様々なブランドシューズ生産を手掛けている。例えばコンバースMADE IN JAPANモデル最近は810sシリーズ安価かついなたいデザインで人気だが履き心地はうーん。GYM CLASSICを愛用中。

【SAUCONY】

数年前に某マートから販売されたが一瞬流行ってすぐに消えた印象。SHADOW ORIGINALは履き心地が良かったがJAZZ普通かなあ。ロゴダサいとの声が多い。

KARHU

かわいいクマロゴが特徴のフィンランドブランド。なんとも表現しづらい配色が特徴。女性向けのデザイン/配色のような印象。投げ売りされてたランシューがめちゃ良かった。

【DIADORA】

バッジョが履いてた。ロゴが音符を並べているみたいな。Heritageシリーズくらいしか知らない。まだ日本で買えるのかな?

【Atlantic Stars/PREMIATA

イタリアサッカー界隈で流行った星の連弾ロゴ職人手作り/ホに見えるがユニオンジャックらしい。ソールも特徴的。

【WALSH/NOVESTA/blueover】

ハイテククラシック系。それぞれに特徴があってよい。blueoverは銀だことのコラボスニーカーが当たってしまった。

le coq sportif】

このブランド特有フランスっぽい?デザインが特徴だが製造販売デサント女性に人気がある印象。最近ロゴから△がなくなったが、あったほうがよかった。ハイテクシューズでも芯が入っていて履き心地は微妙

【PATRICK】

フランスまれ日本製。ハイテクローテクともにモデルが多く、素材も多種多様サッカー起源モデルも多い。30代~から支持されている印象。買ったモデルに関しては日本製だが特段品質面で優れているとは思わなかった。

【SPINGLE MOVE

日本製。革のアッパー×しなやかなゴム底のシューズバルカナイズ製法デザインにも特徴がある。男性向けのデザインのような気がする。セメント製法で貼っつけただけのローテクシューズ比較すると明らかに品質で差がある。

【Admiral】

ミツカンと同じかと思ったら上下が逆だった。この手のデザインブランドってMobusとかマカロニアンとか無数にあるけどなんていうカテゴリーなのかわからない。クラシックではあるんだろうけど。最近はめっきり見なくなった。某プラザ販売されてるイメージ

【HOKA ONE ONE

Time to Fly。とんでもなく分厚いソールが特徴でとくにローテクに慣れていると履いた瞬間になんだこれ!?となる。それと同時にボリュームが出るのでぼってりとしたデザイン。ランシューだがファッションで取り入れられることも多く、最近スニーカー販売されはじめた。

on

アンノーンみたいなデザインシューズ。アウトソールに特徴があり、人を選ぶかも。こちらもランシューだがビジネスシーンで取り入れる人も多く、自分もその一人。定番モデルは見た目にボリュームがなく薄い印象のため取り入れやすいのかも。

【FILA】

現在韓国企業で厚底ブームに合わせて進出してきた。AKI CLASSICも似たような感じだろうか。あんまりわからん

SALOMON

テック系がファッションシーンで盛り上がっていてその筆頭。タウンユースでは贅沢な機能性。アウトドアシーン向けなので履いたときの包まれ感はガチッとしている。

MERRELL

JUNGLE MOCが定番自分には合わなかった。ソールがかてえ。

KEEN

サンダルジャスパーシリーズが人気。フェスでよく見かける。足先にゆとりがあるデザインが特徴。

Columbia

アウトドアメーカーだがスニーカー豊富。防水スニーカーなど日常使いできる選択肢を増やしてきてる印象。たまに公式を覗くとおもしろい。

PBも好きで買い漁ってる。無印良品キャンバススニーカー定番でよく履いてた。最近だとアルペン(DEPO)のPBがんばってる。

もう思いつかないのでこのへんで。ちなみにダンロップライセンスであることはあまり知られていない。

ツッコミなどなんでも歓迎です。

学歴コンプレックス卒業した 4/4

https://anond.hatelabo.jp/20240502193040

終わりに~

この大学卒業してから長い時間が経った。あれから1回転職して、新卒で入った会社とは別の電子機器メーカーで働いてる。今はキーボードとか作る仕事をしている。東京神奈川オフィス工場がある会社である。もしかしたら、地下鉄なんかで増田民はてな民ニアミスしてるかもしれない。

今では佛教大学感謝してる。あの頃はいろいろ思うこともあったけど、だからこそ今の自分があるのだ。

仮に、第一志望だった同志社大学に進んでいたとしたら、きっと、ここまで努力は重ねなかった。自分に実力があると勘違いして、学業に力を入れるとか、TOEICで相応の点数を取るとか、就職活動に超力を入れるとか、そんなことはなかっただろう。

この道は、正しかった。第一志望の大学不合格でよかった。親や兄弟や親戚に不合格バカにされてよかった。だから、悔しさをバネに努力ができた。

自分は運がよかった。今ではそう思って、歩んできたこの道に感謝してる。

でも、実は後悔がひとつだけある。卒業である。実は、自分卒業式に遅刻している。その前日にアルバイト飲み会があって、就寝が遅くなった。朝起きたら卒業式開始の10分前だった。

失敗はそれだけじゃない。なんと、卒業式の最中にゲリピーブレイクになってしまい、トイレに行っている間に式が終わっていたのだ……あれはショックだった。遅刻だけならまだいい。遅刻してる学生はたくさんいた。しかし、これは……「失敗した」という思いが強かった。ずっと引きずっていた。

というわけで、先日3/18(月)に佛教大学卒業式に参加してきた。もちろん保護者である

後ろの方の席だったけど、約十年前もあんな感じだったな、としみじみした気分になった。この時はさすがに遅刻はしなかった。しかし、残念なことに……式の最中にゲリピーブレイクが再発した。

焦った。これは焦った。けれども、ここで奇跡が起こった。十年前のことを思い出したのだ。十年前の失敗は確か、最後まで我慢しようとしたのが原因だった。それで、学歌斉唱が始まったあたりで体育館和式トイレ(※洋式はない)に駆け込んだ。それで、失敗した。

式次第を読んでみる。そして、学長その他3名による卒業祝いの挨拶が長時間になると踏んだ。「よし今なら……いける!」と、その時間帯に会場を抜け出し、体育館和式トイレ(※洋式はなかった)に駆け込んだ。

会場に帰る頃には、ちょうど学歌斉唱が始まっていた。そういえば、大学の学歌ってほとんど聞いたことがない。どこの大学でもそんなものだろうか。

とにかく、卒業式は無事に終わった。終わったのだ。十年来の無念が晴れた気がした。最後プロジェクションマッピングがあって、マジでびびったわ……。

卒業式中の写真(※個人情報保護のため一部編集しています)

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ところで、式次第には学位記授与のことが書いてあった。卒業式の後、それぞれの教室学位記を受け取る儀式があるのだ。

ああ、確かこんなのあったなと思いながら、ついでに保護者枠で参加することにした。幸い、見た目は学生時代から老けている。今ではすっかり小太りのおじさんである。社内では、同輩や後輩から部長」と呼ばれることもある。保護者に見えなくはないはずだ。

卒業式の会場を出てから100席ちょっと教室に入ると、今まさに社会学部とある学科学位記授与が行われようとしていた。この時も、約十年前にあった学位記授与の記憶が蘇ってきた。

「静粛に。これで二度目だぞ、君らは最後までわからんのか!」

約十年前は、学位記授与の担当教員に怒られたんだっけ。小さい講義室で、学生たちがあまり煩いものから学位記を授与する前に怒号が鳴り響いたのだ。懐かしい。4年前の入学式でも、やはり怒号が鳴っていた笑

あとは、その日の夜にあったホテルでの謝恩会の時も、一番最後卒業代表が、ステージ上で「私がこの学校入学が決まるまで、大学受験で苦戦しました~3月最後最後まで受験を続けて、それで最後合格を掴み取ったのが、この佛教大学でした~卒業生の皆さんも~(以下覚えていない)」といった卒業記念の挨拶をしていた。が、当時の卒業諸君は大騒ぎだった。卒業代表の話なんて聞いちゃいなかった。

今では、そんなことは一切ない。みんな、小さい教室の中で静かにしている。雑談している子は1人もいない。こういうのって、なんだろうな。もしかして少子化によって選ばれし優秀な遺伝子しか世の中に存在できなくなりつつあるのか?

それはいいとして。学位記の授与では、一人ひとりが名前を呼ばれて学位記を受け取ってたんだが、やはりその……しみじみとした思いがした。自分はずっと、彼ら彼女らが教員から学位記をもらうのを眺めていた。全員が終わるまで30分以上もかかった。

最後に、学部先生挨拶をしていた。

(以下要約)

あなた達はコロナ禍の大変な時期(※2020年度)に入学してきた

入学式はなく、授業はリモートだった。学食でも黙食であり、不安も大きかったと思う

学生生活の中で、あなた達は多くの試練を突破してきたはず

社会人になってもどうかそのことを忘れずに、自信をもって働いてほしい

・いつでも大学に帰って来ていい。私たちは待っている

すべてが終わると、学生たちは粛々と立ち上がって、静かに退出しようとしていた。俺がいた頃とは大違いだ。あの頃は、絶対にみんな大騒ぎだったと思う。懐かしい。「威勢のよさ」と「常識の順守」がトレードオフになっている。そんな気がした。

※推測だが、2020年当時って、入学式オリエンテーションはないし、マスクオンで皆の顔わからないし、何より授業はリモートだし、学食でも黙食が義務だった。ということは、学生間の絆のレベルコロナ禍以前に比べて低かったのかもしれない。

ちなみに、ほかの学部学位記授与の教室もチラッと外から覗いてみたのだが、どこもいい雰囲気だった。先生学生も、熱の篭った感じで最後儀式に興じていた。特に教育とか保健とか看護学部がよかった。

卒業式の後~学内散策(※上に同じく一部編集)

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大学を出た後、近くにある千本北大路交差点で、卒業生達が「じゃあな」と言いながら別れていくのを見た。

社会人をやって十年以上が経つけど、今日という日は感慨深いものがあった。涙までは出なかったけどな。



これで結びになる。

若い頃は楽しかったってよく聞くけどさ。実際、そこまで楽しくはなかったよな。当時の日記を読み返してて感じたんだけど、「早く実力を身に付けたい」の一点張りだった。あの頃は、自分雑魚すぎて嫌だった。

「あの頃はキラキラして、いつでも輝いていた~」みたいなことは絶対なかった。あるわけねーだろ。当時の日記を参考に、あの頃の気分を一文で表すと、砂漠をうろついてるフンコロガシみたいだったよ。でっかい玉を作りたくて、己のショボい脳と身体でどこまでも足掻いていた。満たされなくて、いつも飢えていた。心が。

大学の中も、大学以外の外にある世界全体も――学業アルバイト先、恋愛とかでも、自分よりはるかに格上のヤツがいっぱいいた。劣等感が凄かった。自分が何者でもない感じがして、苦しかった。自分雑魚さ加減が嫌になったよ。そんな4年間だった。

今でも夢に見る。学生時代の下宿で、コタツ机に昔の自分が座ってる。深夜1時だというのに、アルバイトから帰った後で、TOEICの教材でリスニング勉強をしている。

なんだか寝落ちしそうな雰囲気なのだが、その度にコタツから立ち上がり、頭をそのへんの壁に打ち付けていた。一息を吐いてから、それでまた、勉強に戻る。

あきらめないでくれ……」

夢の中にいる自分には、そう応援するくらいしか手段がなかった。でも、勝手に声が出ていた。

「昔の俺よ、どうかあきらめてくれるなよ」って、そう祈っていた。そしたら、いつの間にか目が醒めていて、いつもの布団の中にいる。天井を見上げている。

でも、学生時代が楽しかたかといえば、楽しかったよ。当時は辛かったんだろうけど、でもなぜか、今になると「あの頃は楽しかった」に記憶がすり替わっている。

しかったはずの日々なのに、どうして「あの頃は楽しかった」ということになるのか? それって錯覚じゃないか? 自分自分を騙してる。なぜ、こんなことが起きる?

確信はないけど。【一所懸命】だったからじゃないか自分は忘れても、脳は覚えてる。あの頃、一生懸命に苦しんで、欲しがった何かが――今、自分の手元にあるんだって無意識はわかってる。

から、それまでの過程がぜんぶ、愛おしくて、切なくて、やり切った感があって、いい思い出として変換されるのだ。実際は辛くてしょうがなかったのに。

しかった時のことほど、楽しく思い出すことができる。反対に、楽しかった頃の記憶って、特に何も感じない。脳裏から記憶が消し飛んでいく。それだけだ。

今回、自分記憶を整理する機会に恵まれた。十年ぶりに大学卒業式に参加することができた。おそらくもう、あの大学の門をくぐることはないと思うけど、本当に運がよかった。

ありえないことだけど、昔の自分に伝えられるのなら、伝えてみたい言葉があるんだ。「諦めないでくれてありがとう」って。

学歴コンプレックス卒業した 1/4


約十年前に、とある4年制大学卒業した。名を佛教大学という。

高校生の頃は、仏教を学ぶための大学だと思っていたが、それはごく一部の人に限ったこである

実際には文科系総合大学だった。ちょっとだけど理系もある。

なんで、この増田でこんなことを書こうと思ったのか。それは、この大学での思い出や記憶に踏ん切りがついたからだ。人生の一部に納得ができたというか。それで、卒業シーズンということで、今回書いてみようと思った。書き始めは3月下旬である。ずいぶん時間がかかってしまった。

普段から増田投稿してるわけじゃないから、ヘタクソな箇所があるかもしれん。ご容赦を。なお、「学歴コンプレックス」という言葉は、当日記中では使用していない。

佛教大学は、いわゆる中堅私大と呼ばれるところだった。平均偏差値は……なんとも言えない。理学療法士作業療法士になるための学部は高偏差値なのだが、それ以外の学部はお世辞にも偏差値が高いとはいえない。Fランクではないが、基本的には関関同立不合格だった人が入学してくる。滑り止め率が極めて高い大学である

なんで自分がここに入学たかと言うと、やはり滑り止めだ。第一志望としては同志社大学(政策学部)に行きたかったのだが、実力があと一歩及ばなかった。残りの関関同立も全滅して、残念ながらこの大学社会学部に進むことになった。

大学4年間のことはそこまで覚えてない。実際には、いろいろあったんだろうけど。

学業一生懸命に取り組んだ。授業をサボることもあったけど笑 成績はいい方だった。卒業単位が揃った後でも、まだずっと授業に出続けていた。学問が好きだった。

アルバイト金閣寺にあったマクドナルドで、部活(実態サークル)は地味めの文化系だった。いわゆる【文芸サークル】みたいな感じか。みんなでドキドキ(?)な文芸を書いてたんだが、大学生なんで、俺を含めたほぼ全員が既存作家コピペだったのが記憶に残ってる笑

ただ、今になると記憶がない。本当に記憶がない……自分はこの大学で何をしていたっけ? そんなに無為ではなかったはずだが。

学食は1人で食べることが多かった。それ以外の行動も、1人または少人数のどちらかだ。授業は半期ごとに目いっぱい取った。32単位分を。教職課程は2つ取っていた。186単位を取得して卒業したんだっけ。サークル飲み会では、やっぱり1人でちびちびと飲んでいた。大した思い出は詰まってない。

冒頭が退屈なのはよくない。本題に入ろう。まずはアブストラクトだ。

大学1回生の時に思ったんだ。「このままじゃダメだ」って。第一志望の大学に入れなかったけど、大学生活をエンジョイして、就活では結果を出して、大学入試の結果をバカにしてきた家族兄弟や親戚を見返してやろうと思っていた。

でも、正直心が折れかけたよ。1回生の頃からそうだったけど、とにかく在学生の質が低すぎた。ヤバイと感じていた。ただし、これは当時の考え方にすぎない。今だと「どこの大学生でもあんなもん」くらいの緩い考え方である

当時は、実力を高めることに貪欲だった。飢えていたのだ。強い自分に。弱い自分が嫌だった。人としてレベルが低い学生を見ると腹が立った。自分がこいつらと同じなのかって思うと腹が立ってしょうがなかった。一刻も早く、ここから卒業して、立派な社会人になりたいと思った。

そういうわけで、学業とか、TOEICとか、文芸サークルとか、アルバイトもそうだけど、とにかく何でも頑張って、最後は……いい会社から内定をもらうことができた。アベノミクスの始まりの頃で、景気はゆるやかに上向いていた。

入社したところは、いわゆる一流ではないけど、佛教大学卒業者で会社員~という観点からすると、いいところだった(電子機器を作ってるところ)。同学年では、全学部を含めて№1の結果だった。

さて。ここからは、各学年の時の思い出を綴っていく。

一番最後に、今の自分気持ちを書いてみたい。



大学1回生の頃~

入学式と最初オリエンテーションが終わった後、知恩院という重要文化財のある宗教施設に行くことがあった。大学がやっている新入生向けのイベントだった。浄土宗大学だったので、そういう縁からか、知恩院僧侶の方々が歓迎的な催しをやってくれた。

今思えば、重要文化財のお堂にあれだけの新入生を詰め込んで、いろいろやってくれるってスゴイことだったと思う。

この時はまだ、この大学に悪い印象はなかった。しかし、本格的に授業が始まってからは、上に挙げたようなマイナスイメージが付きまとうようになった。大学時代日記を参考に書いていく。

以下、特定の思い出エピソードを語る場合は、太字タイトルを付けて1字下げにする。

1.授業中の男子学生

 新入生向けの英語の授業だったかな。前の席に座ってた男子学生が、先生の話を聞かずにケータイを弄っていた。先生がさ、「授業中です。携帯電話はやめなさい」って言ったんだけど、彼は聞かなかった。

 先生それから何度か指導をするんだが、やっぱり聞かない。で、そいつは「う~い、わかりやした~」みたいな感じで答えている。先日まで高校生だった人には、授業はきついのだろうか(と当時の日記に書いてあった)。

「もういい。お前は落とすっ!!!!」

 先生が小さい講義室の中で、声を張り上げた。いやあ、あれは久々にびっくりした。その学生は退出を命じられ、教室には重苦しい雰囲気が漂った。

 当方は、京都まれ京都育ちである佛教大学には、高校生の時にオープンキャンパスで来たことがあった。その時は、悪い環境じゃないなと思った。学生以外にもいろんな人がキャンパスにいた。学食には障がい者とか、ご老人とか、浮浪者の人とか、中高生とか、とにかく多様性に富んでいた。どんな人でもキャンパスに受け入れる空気感が好きだった。

 しかし、【カオス】というのは多様な方向に拡がる。それは、いい方向ばかりとは限らない。そういうものなのだ……。あと、ついでを言うと、この頃はちょうどキャンパスの再整備工事最中だった。今ではクソデカ超立派な新一号館が鎮座している。

仮校舎とかもあった。実際、授業中の思い出と同じくらい、工事現場が間近にあったイメージが強い。

2.想像を絶する張り紙その他

 一般的に、若い人ってモラルが低くなりがちである。それはいい。若いんだからマナー常識もこれから勉強すればいい。

 しかしbut。自分学内で見た貼り紙の中には、「え……?」というものがいくつかあった。以下に列挙する。

(貸出物品のこと)

 多目的情報ルームみたいな施設があったのだが、職員カウンターの前にこんな趣旨張り紙がしてあった。

「今後は学生への事務用品の貸し出しは行いません。貸した後で帰ってこないことがあまりに多いためです」

 久保帯人ブリーチじゃないけどさ、俺にしてみれば「なん…………だと…………」だった。

体育館張り紙

 キャンパス内の鷹稜館(おうりょうかん)という建物には、体育館兼式辞ホールがある。飲食禁止である。昼休み中に駄弁るのもダメ。そういうルールだった。しかし、学生の中には、スポーツとかするエリア内でメシを食べたり、授業の空き時間ステージ上で寝てる人が多数いた。

 いつからだろうか、「館内での飲食や休憩はできません。見つけ次第指導します」といった貼り紙が増えていた。その際の、自分認識としては……「なんでこんな貼り紙存在するのだろう。管理者ダメって言ってんだからダメなんだよ。なんで従わないって選択があるんや?」というものだった。

 大学生になって一年も経ってなかったが、高校時代とは違う風景がそこにあった。大学自由なところとは聞いていた。でも、俺が想像していたのはこういう自由ではなかった。

コピーカードのこと)

 何円だったかは忘れたが、学内のどっかで【コピーカード】を販売していた。ただ、部活(サークル)が小説などを書くところだったんで、印刷物を刷る時の負担が大きいんだよな。100%公的もの(ex.学内新聞関係)だと部活動費で賄えるが、個人的趣味出版物だと難しいものがある。

 同じ部活にいた文学部学科は忘れた)の女の先輩が、趣味同人誌を作ってたんだけど。その人が、ゼミ教授から一時的に借りているコピーカードがあって……教授が持ってるコピーカードって、枚数無制限なんだよな。もしくは1万枚とか度数があったと思う。

 もうわかってるとは思うが、その先輩は、印刷無料販売用のマイ同人誌を大量印刷していた。確かあれは、『TIGER & BUNNY』か『ギルティクラウン』のどちらかだった。さすがに今では、どっちか思い出すことはできないけど。

  「先輩、それヤバいっすよ」と言ったけど、先輩は素知らぬ顔で答えるのだ。

増田君。文学活動にはね、お金必要なんだよ。これも社会のためだと思って、見逃してほしいな♪」

 だってさ。あまりクールだった。いやぁ、あの時は痺れたね……笑

 (参考:https://tadaup.jp/702e034b1.jpg)

 ※度数1000のコピーカード画像自分教授から借りてそのままだった笑

この頃から自分は佛大の学生とは距離を置こうと考えていた。

早く、とにかく早く実力を身に付けたい。レベルが高い社会人になるべく、今から努力を積み重ねるのだ!! この課題については、なんとしても早く――昨日のうちにでも達成する必要がある。

そして、大学卒業後は、一流どころの大企業へ。そんな牧歌的なことを考えていた。

https://anond.hatelabo.jp/20240502193039

2024-04-30

anond:20240429234338

力の強さがぜんぜん違うのに、力が弱い女に体育館使わせてやるんだから下働きしろ仕事押し付けて、力が弱い方に重い荷物持たせて手ぶらで歩くってヤバイよ。

私でも小学生に重い荷物持たせて手ぶらで歩くなんて恥知らずなことしないのにどうなってんだ…。

九州役割分担してるんですの役割分担って家の仕事から下働きや力仕事まで女に全部やらせるって意味なのか。

2024-04-29

さす九のリアル上京して「お前の地元おかしいよ」と言われるまで〜

「実は、女は台所で美味いものを食べて楽しくやってるんですよ」という話で噴き上がったさす九。

じゃあ、実際はどうだったのか。1人の九州出身者(身体女)の体験談を、列挙していく。

もちろんこれは、単なる個人体験談であり、また実際に以下の事象が起こったという裏付け証拠を出せ!と言われても無理である増田から匿名だし。

ただまぁ、こういうことを経験したと主張する人間が、少なくとも1人存在する。

小学校

テスト

すごく賢い男の子がいた。

私と彼は、競い合っていたわけではないけれど、だいたいテストでいい点を取るのはこの2人だよね、的な空気クラスにはあった。

ある時、別の賢い男の子が転校してきた。

そしてその男の子2人は点数を競うようになっていった。

まり点数を気にしていなかった私も、2人の姿に競争心が刺激されて、点数を稼ぐための勉強をした。

ある時、私が満点で、男の子2人は満点を取れなかったテストがあった。

点数を聞かれて、私は自慢げな気持ちを抑えてテストを見せた。

男の子たちは、私に凄いと褒めてくれた後、とても悔しそうに呟いた。

まさか、女に負けるなんて」

何だか、全部バカバカしくなってしまった。

女の子が産まれたら

私はずっと、父親から「お前が生まれたと聞いた時、駆けつけて『女の子ですよ!』と言われてガクーッと来たんだよなぁ」というのを、ジェスチャー付きで言われつづけてきた。

そして、祖母は「どうして男を産まなかったのか」ということで、ことあるごとに母をネチネチ虐めていた。

そして、従兄弟が産まれたら大騒ぎし、初めての男の子!と色んなプレゼントをし、男の子から!とお金を渡し、やたらに可愛がっていた。

兄弟クズだったしバカだったが、それでも従兄弟の方が可愛がられた。

これで無関心になってくれれば良かったのだが、孫の中で唯一私だけが、ある程度進学校として名の通っている中学校に進んだので、祖母の自慢要員(アクセサリー)兼おさんどん係として、今後も振り回されることになる。ちなみにアクセサリーとして祖母随伴してもお小遣いはもらえない。旨みなどまったくない。

・私の顔

私は、嫌になるほど祖母に似ていた。

外で歩くと、「あら〜増田さん(仮)ちの子でしょ!」と顔を見て言われるほどで、本当に嫌だった。

そして、祖母はおじ(父の兄弟)と似ており、私はおじの子だと間違われることがかなりあった。

私はおじも嫌いだったので、母に「また外で似ていると言われた。そんなに似ているか?」と愚痴った。

「そうねぇ、アンタは産まれた時からおじさんに似てるって言われてたわぁ。○○おばさん(祖母姉妹)なんて、『本当に似てるわねぇ。何でそんなに似てるんだろうねぇ』って言ってきたのよ」

「えっ?それって」

「明らかに、おじさんと不倫したんでしょ、ってニュアンスだったわ」

ギョッとした。それからしばらく、なにも言えなかった。

中学校高校

・寮

田舎小学校あるあるかもしれないが、会話していても本気で話が通じなくて苦痛だった(A=BでB=CならA=Cだろう、という会話で何でなんでそんなのお前の感想じゃんじゃあA=Dじゃん!みたいなことを喚かれる)。

から脱出先を探し、幸運にも「親の出した条件」をクリアする学校が見つかったのでそこを受験した。

というわけで、若干遠い学校に通うことになった。

一時期、寮に入っていた。

その時、管理人(男/中高年/既婚者)が、授業中に無断で女子生徒の部屋に入っていたことが判明し、問い詰めたことがあった。

下着も干している、プライベート場所だ。なぜ留守中に入る必要がある、今すぐやめてくれ」

私の主張は鼻で笑われた。

「お前達は子供だ、親は部屋に入るだろう。俺は親代わりなんだから部屋に入って当然だ」

私は食い下がった。

「お前は親ではない。というか親だったとしても、親はわたしプライバシー尊重してくれる。留守中に、下着を干している部屋に無断で入ったりしない」

男は心底驚いた顔をした。

「それは、お前の親が、家庭がおかしいんだ。お前の親、おかしいよ」

周りには、部屋に入られた他の寮生もいた。

管理人の異様さのせいか、みんな何も言えなかった。

親がおかしいとまで言われ、私は絶句し、泣いた。

どうして下着を見られたくない、それだけのことなのに親まで詰られなければならないのか。

翌年から私は寮を出た。

私も、周りの子も、親や教師相談をしたと思うのだが、奴が問題になって出ていく、みたいなことはなかった。

お前達は子供からお前らの下着を見ても別に興奮しない、みたいなことずっと言ってたけど、疚しかったんだろうなぁ。キッッッショ(感想

・その他

あとは、その辺で陰茎出してるお兄さんとか本屋で尻触ってくる痴漢かいた。あと、ちょっと気持ち悪すぎてここでは書けない(性被害の度合いとして酷いことをされたというより、なんかもうキショすぎて口に出すのを憚られる。周りからすると笑えることだと思うけど、今でもキッショいなぁ〜恥ずかしいなぁ〜口にできねぇ〜!って思っちゃう)ことがたくさんあった。この辺りは九州特有の、というわけではない気がするので今回は割愛する。

一般の、日本に生きる女子中高生としてよくある性被害を受けていた(これも大概どうかとは思うが)。

大学

このあたりで、うっすらと「フェミニズム」が九州でも認知されてきたように思う。しかしそれは、九州的な「女がすべきこと(雑用)」を完璧にこなして男様を気持ちよくさせた上で男様の2倍の実力を発揮できるようでなければ、自分権利を主張するな、という空気しかなかった。

今も変わらない?そうかな……そうかも……

部活

部活は男女に分かれている一方で、用具の準備やらなんやらの雑用はかなり女子が多くやっていた。

理由は「女の方が弱いのに、同じ体育館を使わせてもらってるんだからその分部活に奉仕しろ」とのこと。

今思うと頭おかしいが、当時はせっせと雑用をしていた。

もちろんマネージャーもいて、お茶の用意などは基本的彼女らが全部やってくれた。だがマネージャーであると同時に友達でもあるので、やっぱり時間があれば手伝うことも多かった。

引退する時、部長(男)が全員を集めてこう言った。

「お前らは知らないだろうが、マネージャーはずっと俺たちにお茶を作ってくれたりと雑用をして支えてくれたんだ。お礼を言おう」

しらねーーーーーのはお前だけだがーー!!?!?!?!(流石にキレる)

感謝気持ちがあるなら毎回手伝えばよかったじゃん!?!?!?!?!?!?手伝ってたのは女子部員だけだし、女子部員は全員毎回誰かしら手伝ってたんだよ!!!!それも見てなかったの!?!?!?!?!?

最後感謝して俺いいこと言ってる✨顔してんの、何なんだよ!?!?!?

葬式

母の父、私から見て祖父が亡くなった。

人が亡くなると、49日までお経あげたりと度々集まるような宗派だったので、私は毎回その集まりに駆り出され、おさんどんをさせられていた。

食事は、「気が詰まるだろうから」という「お気遣い」をいただき台所で食べた。

「そんな扱いされると分かってるなら行くなよ!」とか「拒否れば?」って思う人も多いかもしれないが、こちとら物心ついたときから盆や正月、親戚が集まれば配膳や酒を注ぐやら灰皿変えるやらさせられていた九州の女である。手伝いに行くことに、疑問すら持たなかった。

唯一疑問を持ったのは、祖父の墓に参れなかったこである

お経を上げ、お墓参りに行く時、女衆は座敷のセッティングをして墓参り組を待つのだ。

ただ、みんな車に乗っているので、お酒の準備はないし、料理も既に用意していたりお弁当を並べるだけだったりして、正直女でも2人いればどうにかなる。というか、机動かすのとか男がやれよなって今なら思えるが、当時はそんなことも思い浮かばなかった。

最後の集まりの時、おじから「今までお墓参り行ったことなかったよな。今日は行くか?」と聞かれ、私はもちろんと頷いた。

ここまで、孫なのに墓に参ることもなく、おさんどんだけさせられて帰らされていたというのは(そして男の孫はそんな目には遭っていない)かなりグロい状況なのだが、そんなことには気づいていなかった。そして、初めてお墓見るなぁと、少しワクワクしていた。

お坊さんがお経を上げ終わり、じゃあみんなでお墓参り行こうかという準備をしていた。私は、ギリギリまでおさんどんして、残る人たちの負担が少しでも減るようにしていた。

完全に行くつもりで玄関に立っていた私に、母から

「やっぱり、お墓参りちょっと……今回は、家で待っててもらえる?」

と言いにくそうに言われた。

「今回は」も何も、一度もいけたことはなく、ずっと家で待っていたが?????おん?????????

と思ったが、絶対絶対お墓に行きたーい!みたいな情熱は無かったので、まぁそう言われるなら……と私は了承し、家で待った。

何で「やっぱり、お墓参りちょっと」なのか。

兄弟たちは行けるのに、なぜ私はダメなのか。

そういえば、私以外の女の孫は、みんな来てないなぁなんて思いながら、墓参りに参加するために急いで用意してしまいやることがなくなった台所で、ぼんやりと親戚一同が帰ってくるのを待ったのだった。

・さつまおごじょ

大学は、九州各地から色んな人が来ていた。

そんな中でも、鹿児島の人たちの話は強烈だった。特に女性から聞く話はもう、上記のような経験をしている私からしても「おかしいよ!!」と絶叫するような話ばかりだった。

そのうちの一つが、以下に書くような話だ。

「胸が大きいと、同級生先生からセクハラ行為を働かれる。

というか、胸の大小について、男性から公的場所で、大っぴらに色々と揶揄われる。触られる。性的言葉をかけられる。」

これまで私が受けてきたセクハラは、「性的意図はないから!」みたいな隠れ蓑が必ずあった。建前というか、私は悪いことしてませんよ、と言うために本音を隠す「何か」があった。

でも、鹿児島にはそれがない。女にセクハラしようが何しようが、性的意図で触ることが「悪」ではない。少なくとも、その場で眉をひそめられたり、他人から咎められることではないのだ。

私は中高生時代に、胸が小さいことをさんざん同級生揶揄われたので、スタイルが良くて良いねと心の底から羨ましがったら、「胸が大きくていいことなんかない」と言われ、上記のことを教えられた。その後、鹿児島ってそうなの?と別の子に聞いたら、そうだよーあるあるーみたく言われ、本当にヤバい場所だなと認識した。

から余計に、「鹿児島は本当にやばい、いわゆる男尊女卑とはああいうのを言うんだなぁ。私は普通でよかったなぁ」となった。

普通じゃないことを知ったのは、上京してからのことだ。

大学

祖母ダブルパンチ

大学院に進んだ。

そこそこ名の知れた学校で、進むにあたりかなり頑張ったので、私はかなり鼻高々だった。調子に乗っていた。

父方・母方の祖母2人に、進学を報告した。

一方はかなりボケていたが、どちらも全く同じ事を言った。

「女がそげん勉強して、どがんすっ」

翻訳すると、「女がそんなに勉強して、どうする」という意味である

小さく、私にしか聞こえないように、告げられた。

戦争で進学を諦めた、母方の祖母なら理解してくれると思ったけれど、この地はそんな祖母気持ちすら奪った。恨むべきはこの地なのに、私は祖母が受け入れてくれなかったことを、裏切られたように感じてしまった。

荷物持ち

大学院に進んだ後、同じ研究室の人と軽いパーティをしようという話になった。

買い出しで、私は当然、重たい水の入った袋を持った。だって運動部で、鍛えていて、そのくらい持つ力があったし、「男と同じように扱われたいなら少しでも男に甘えてはいけない、それはダブルスタンダードだ」という考えが、日常から言葉でも言葉になっていなくても、骨の髄まで染み込んでいたからだ。

男性陣はそれに驚いて、「いいよ!増田ちゃんは軽いやつ持ってよ」と言ってきたが、ああそういう『ポーズ』ね、と思い「大丈夫だよ〜わたし力つよいし」とそのまま行こうとすると、

女の子なんだから

と言われた。

雷に打たれたような気持ちだった。

こいつは何を企んでいる?と思った。

どう対応すればいいのかわからなかった。初めての経験だったから。

頭が真っ白になっている間に、男性陣が荷物を持っていってしまった。

女の子から、という理由作業免除されたのって、もしかしてこれが初めてじゃないか?書いていて思った。

感想

さす九の何が嫌かって、「女は3歩後ろをついてこい」「外では俺を立てろ」と要求してくるのに、女を全然守ろうとはしないことなんですよね。女に守ってもらい、女にお世話してもらい、女に気持ちよくしてもらい、というおんぶに抱っこ。少しでも自立しようとすれば「だったらこれもやれ」「俺の世話も手を抜くな」「そこまでやって初めてお前は権利を主張できるんだ」と。

もちろんそうじゃない男性もいるとは思うんですけど、私が20ウン年あの地で生きてきて、荷物持ってもらえただけで衝撃を受けたってのは、やっぱりあの地に残る空気感、仕草、そういったもの日本の他の地とは違っているからだと思います

普通に訪れたり、一人暮らしするだけではわからない、実際にあの共同体に組み込まれて、初めてわかるものがある。

中学生くらいの時から欧米女性自分で何かをやり、自分で自立することをフェミニズムという!お前らは権利を訴えるだけ!見習え!みたいなことを言われたりもして、そうかぁ!そうだよなぁ!!ってしゃかりきになって勉強して自立しましたが、最近になって「欧米女性そもそもお人形さん』『アクセサリー』のように大事に扱われるのがデフォから、そこからの脱却を目指していたんだよ」と聞いてズコーーーっ!!!とずっこけました。

前提が違うじゃん!お前は割烹着きて家事育児して俺のご飯の準備とセックス相手をして少ない給料でやりくりしてから好きなこと言え!働きたいなら最低限そのくらいしないと自立した女じゃない!みたいなのが日本の反フェミっていうかフェミが台頭したいならちゃんしろよ論者が言ってきたことじゃん!?少なくとも1020年前の九州ではそう言われていた。

生きづらくて逃げに逃げて、逃げた先から昔いた場所俯瞰して「やっぱあそこおかしかったんじゃ〜〜ん!?そこから脱出できた私えら〜い!!」って、今は自分を褒め称えようと思います。いやマジで頑張った、ありがとう、本当に今とても楽です。

【おまけ】トランスジェンダーになりたい少女たちについて

上の話を読んでなんとなく察した人もいるかもしれませんが、私は小中学生時代男の子になりたかった。

だって男の子だったら本を読んでいても、勉強していても、不細工でも、問題ない。何も言われない。変だとか、生意気だとか、言われなかった。

男の子がよかったのになぁ」と言われることもなかった。

セクハラされることも、顔や体つきについてとやかく言われることもなかった。

一度、男の子みたいな格好をしてみた。別にそれで何か嬉しかったりとかはしなかった。

ただ、私が男の子だったら、こんな面倒なこと、摩擦が起きなかったのに、という、消極的気持ちで、男の子になりたかった。

あの時、「あなたは本当は男の子なのよ」って言われたら、泣いて喜んでいたと思う。

私は男の子なの、男の子として扱って!となり、治療も受けていたと思う。

けれど、男になった私を、親族は誰も受け入れたりはしなかっただろう。跡取り(そもそもそんな立派な家ではないが)として扱われたりなんかはせず、ずっと後ろ指を刺されていただろう。

今、私は、身体違和を感じていない。

まれながらの心の問題とは別に社会構造として、男に憧れてしまう(少し意地悪な言い方だが)状況がまだまだある以上、そして誰も責任を取らない、取れない治療である以上、成人前の子供に性適合治療をすることは、厳に慎むべきだろう。

2024-04-24

anond:20240424150508

いや、学生時代経験だが

体育館ランニングシューズ使ってキュってやるとゴムの轍できるやろ?

学生時代ならともかく大人でそのリスクしょってやるもんじゃいかなぁと

ジムに行こうとしたんだが変なところでつまづいている

ジム用のシューズがいいのが見つからない…

ランニングシューズだとキュってなると体育館の床にゴムがビシャってなるからダメ出し

こないだ言ったスポーツ専門店バスケなり野球なりは売っていたが

ジム用のシューズあんまり売ってなかった。

少なくとも私のほしい4Eの巾広のやつは売ってなかった。

しかも最低で17000だしそこまではいらぬ

靴はサイズ合わないの買うのは阿呆から通販だと買えないし

こいきゃいいんだコンチクショウ

2024-04-20

街を練り歩きたいんだけど何から練ればいいかわかんない

やっぱ、「納豆」?でもニオイがねぇ。スメハラっていうか?

それとも定番の、「とろろ」?でもやっぱ被るよねぇ円谷幸吉と。

変化球で、「パン生地」?うーん、それはもう、「捏ね」、なんだよなぁ。攻めすぎ?

「ねるじぇら」は死んだし……。

やっぱここは、「ドンドゥルマ」?











追記

テーレッテレー!!おもいのほかトラバブクマ集まったな。みんなサンキュー

行列ゆっくり進むことらしいので街歩きに付き合ってくれる友達4〜5人誘う声掛けから始めるとよい

おいおいマジかよーそんなハードル高いのかよー!体育館とか借りて練習しなきゃいけない「規模感」じゃん!

そうなるとねるじぇらのCM運動やすブルマだったのは理に適ってたんだなあ・・・

うーん仲間あつめもさることながらあのキレのある動きを今から習得すんのムリゲーすぎんぞ!。

そしてブルマも人数分用意するのつらい!さすがに1人分しか手元にないって!

ブルマ増田に言っても歴史のことしか教えてくれなそうだしさあ・・・

ん、ちょっとまてよ・・・!?・・・ってってっていうかサア!!いま気付いたんだけどねるじぇらのCMがいっぱい人がいたのってサア「行列ゆっくり歩く」っていう意味もかかってたのか!?

おいおい深すぎじゃね!?あのCM深すぎじゃね!?手持ちブルマカウント1のワイより闇深じゃね!?


「街を」と言っているのだから「街」だろう。「街を練り、歩く」。牛乳を飲んで大きくなろう、グリーンジャイアント

えーそんなに!?そんなにいるんか「規模感」!?

むりゲーだってそんなんーその条件だと日ハム伊藤くらいしか満たせなくない!?

きょうびそんなサア大艦巨砲主義みたいなの無理だって!やっぱねるじぇらで確実に面制圧を具申ージャイアントしとくわ!


納豆のわけないだろ。気を練るんだよ!街は危険だらけだ。

おいおいそんな物騒なことになってんのかよ、「街」!!

それはもう部隊招集せねばならんなあ!人数分のブルマを!疾く!!


ゆらゆらと振りながら進みます。その様子を「ねりねり」という擬態語で表し、後に変化して生まれ言葉が“練り歩く”だと言われています。” 練りは擬態語だったhttps://omatsurijapan.com/blog/innovation-for-float-1/#i-3

あーたしか山車ゆらゆらしとるな。

それはそうとさあ祭りのお練りってたまに山車の手前とかでゆらゆらしとるだけのひといない?

それFF10戦闘中ティーダかい!みたいな揺れ方のひとおるよな

あれみてて神輿の人と労働格差がエグwって密かに毎回おもってるのは内緒

2024-04-09

夜の帰り道

事情あっていつもと違う道筋で暗がりを歩いていると道路沿いに建てられた中学校体育館からオレンジの灯りがぼうっと漏れ出ていてその中から黄色い掛け声と木の床を蹴り付けるどすどすという音が響いてきてああこんな時間まで部活頑張ってるんだと思ってなんとなく若いころを思い出して少し元気になったその中ではこの時期特有の新たな出会いがあったばかりのぎこちなさやなかなか頭を離れない進路への不安や友人恋愛家庭色んなまどろっこしいものを振り払ってひとつのことに打ち込んでいる姿があるんだろうそんな瞬間の大切さなんて大人になって初めて気づいたけどその大切さを知らないことが先へ進める原動力でもあるみたいなしょうもない思いつきに脳のリソースを持っていかれながら歩き続けるとやがて体育館の下に並ぶ小窓を通して木の床に照り付けた光が目に飛び込んできてオレンジに切り取られた空間けがその外側の薄ぼんやりした世界から何段階も解像度を上げているように感じられてその中の眩しすぎる黄色い声やどすどすと遠慮を知らない音たちもいつかこの都会とも田舎もつかない薄ぼんやりした街から消えていくみたいなこれまたしょうもない思いつきに脳を持っていかれそうになっていると半開きのドアに差し掛かり中をみるとそこでは異様に元気なジジババたちが超ハードバレーボールしていてまあそうなるわなって思った。

2024-04-07

「高過ぎる」、体育館有料化に波紋 利用者無料だったのに」「サークル解散するしか…」 市「質の高い体育館を維持するため」

調べてみたら、長野市長って自民出身だし、そんなのをありがたがって市長に据える馬鹿の末路としては妥当で同情の余地もない。能登同様、自民と一緒に滅べばいいよ。日本には長野はいらない。

2024-04-05

伊丹は怖いところやで

2021年4月~22年4月、指導するクラブ練習中に女子児童(当時11~12歳)を

それぞれ複数回体育館舞台裏ミーティングルーム個別に呼び出し、胸や下腹部を触ったり、キスをしたりしたと認定した。

 元校長は07~12年度に小学校2校で校長を務め、

退職後も市の委嘱スポーツ推進委員会長や人権教育指導員などを歴任した。

バスケ指導は19歳から始め、全国大会にも出場。

市バスケットボール協会理事長に50年近く就いた経歴を持つ。

2024-03-23

anond:20240322000014

自分平成に元年に通った公立中学は不良が廊下で唾はいたり、廊下自転車で走ったり、三階から机を窓の外に投げ捨てたり、体育館裏はたむろするウンコ座りとタバコの煙まみれだったり、教師が首絞められるからネクタイやめたり、非常階段でよく先輩が後輩締め上げてたり、ブラスバンドの先輩にトイレで囲まれ女の子ナイフで威嚇したり、男不良グループ女の子一人相手竹刀リンチして一生物の傷を残したり、不良が授業中に長渕剛熱唱したり、他校の不良が殴り込みに来たりした。

特別荒れた学年だったらしくて卒業式では校長が嬉し泣きしていた。

昨日の夜に、今朝のパンティーを夫に頼んだ。

仕事から帰ったら玄関に置いておいたパンティーが無くなってたから、無事に被ってくれてたんだなーと思ってた。

その矢先、夫から電話

「朝のパンティー、俺が被りに行った時にはもう回収終わってた。だけどパンティー穿いてきた」

と言われ。

増田「え、回収された後なのに穿いて来ちゃったの?」

夫「うん。ダメなの?」

増田ダメでしょ…」

夫「だって使用済みパンティーだよ?」

増田「いやいやいや、曜日決まってんのに体育館に置いておけないでしょ」

夫「じゃあ時間まで指定してよ知らないよ!」

増田「回収までに被れなかったら、持って帰ってくれたらよかったんだよ」

夫「なんか絶対被っといてねみたいな感じで頼んできたじゃん。なんでこんな事言われなきゃいけないの。納得いかないんだけど」

結局私が体育館からうちのパンティーを回収。

帰って来た夫は不機嫌なまま自室へ引きこもり

まさか、こんなに常識が無くて使えないなんて思いませんよ

2024-03-22

anond:20240322000014

俺がいた中学校小学校の延長みたいなノリだったし

そもそも小学校の時点で、ガラの悪い奴が陰キャ体育館裏に呼び出してぶん殴ってる感じだったよ。

2024-03-21

お袋の誕生日

娘と息子を連れて実家に向かう。

途中でいつもの店でケーキを買う。俺と息子はチーズケーキ、あとシフォンケーキ三つ。

行く途中娘はずっと歌ってる。息子はスマホをいじりながらずっとうるさいと文句言ってる。

息子のスマホはあるが娘はまだ持っていない。

息子にアドバイスする。お前のスマホを渡せば娘はおとなしくなる。

絶対やだー」

40分ぐらいで実家に着く。

妻が用意したプレゼント渡す。瓶詰の花。

息子は早速、家にはない炬燵に潜り込む。

娘は体育館で親父と遊ぶ。

何故かうちには卓球台を置けるくらいの体育館がある。

すぐに昼になり、予約してたファミレスに向かう。

親父は柔らかいご飯しか食べたくないので、外食はここの店と決まってる。

俺と息子、海鮮ちらし天ぷら定食、娘お子様寿司セット、親父刺身定食、お袋焼肉定食

親父がなぜか俺と息子の頼んだ天ぷらをうらやましそうに見てる。次はこれを頼むらしい。

実家に帰ると子供砂場遊び。

俺は昔の自分の部屋でスマホ動画見ながら昼寝。

でもすぐに子供たちがちょっかい出しに来る。

娘と息子が代わる代わる添い寝しようとしてくるから、布団の外に転がす。

3時にケーキたべる。

食べ終わって娘と息子は寝そべる場所を巡って兄弟げんか。

やたらうるさい。

俺はまた自分の部屋に戻ってPS3モーターストーム2で遊ぶ。

晩飯はお袋の作ったカレー

親父はネギ類が一切食べられないので玉ねぎ無しカレー

デザートに親父が買ってきた苺食べて帰宅

子どもが小さい時は毎週行ってた実家も、年に4回ぐらいしか行かなくなった。

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