はてなキーワード: 資質とは
だからなあ、現実の日本なんて、筋道が通っていないのだから、通っているみたいに言うな。まず、日本には理路も方針もありません、というところからすべてが始まるんだよ。誰もが明日どうすればいいかも分からぬまま、社会に従わされている。誰も将来を保証しない。そういうぐちゃぐちゃの中で、どうやったら高学歴になって、将来楽をできるようにするか、の方法論なんて、存在するわけない。それが存在するかのようにいうのは、もうリタイアして頭の中だけで社会に説明をつけたい老人だけだ。妄想はいいから、客観的現実を直視しろよ。
高学歴になれるやつは、資質と環境でほぼ決定している。気のいい方法論なんか教えてもらっても、合格までこぎつけられるもんではない。
トリアージ論争で「他者性がない」というお題目を執拗にあげつらっていた連中が、
実は一番その辺の資質に欠けていたんだという、呆れるかえるばかりのオチかな。
「こいつむかつくから何したっていいんだぜ」的な感覚で暴れて、窘められたら
「そんな事だとは思わなかった」「おいおい、まさか本気だと思ってたわけ?」
「言葉狩りだろ」「あいつもやってる」「露悪趣味ですが何か」等々のエクスキューズで
なかった事にできると考える。相手が自分たちの思いも寄らない他者かも知れない、
ちょっとした振る舞いが相手の人格を否定してしまうかも知れない、そういうリスクについて、
(勿論HALTANさん、Sokalianさんその他関係者が実際にどう受け止めたのかは問題じゃないよ)
実は何も真面目に考えていなかった証拠だと思うね。公開の場で内輪で馴れ合ってズリセンこいてただけ。
そういう自己矛盾した連中の押しつける倫理など一顧だにする価値はない、と感じるのは
普通の反応だろうから、今回の騒動に関係した連中のうち心当たりのある人は、他のタグも
含めてもう一度洗い直した方がいいんじゃないかな。何事もまず隗より始めよ、だ。
俺は別に営業マンじゃないからどうでもいいけど。
とか言うと「どんな職種だろうと営業センスがない奴は使えない云々」とかいうありきたりなレスがつくわけだけど、そんなことは当然わかりきった上でやっているわけで、まぁでも営業マンはそのくらいの短絡思考っぷりと俺様っぷりが、もちろんそれはお客さんの前で外に出しちゃいけないんだけど、必要かなと思う。でまぁ「デキる営業マンの資質」とかいうものがどのように定義されているかと言うと、過去に実際にデキた営業マンの特徴から経験的に抽出された共通部分としてでなわけで、「短絡思考っぷりと俺様っぷり」が必要、という仮定が正しいなら、そういう傾向を持っている奴がそうでない奴と比べて「大学の勉強をストイックにガリガリやる」ようなメンタリティを持ちやすいかというとそれはあり得ないと思う。
適当にサボって恋をした学生生活って、人並みの営業の資質だだろ。
最低限必要な条件を自分で判断できること。あるいは単位をとるために必要な人間関係を築けること。適当にサボっていながら、要点は抑えて最低限の結果は残せること。
「何をやればいいのか、何をしたいのか」を自分で決めて実行することができ、破綻しない程度にルールを守ることができる人間。
資質があっても「人並みの営業」とは限らないけどね。資質はあっても仕事サボって周りに負担をかければ、会社にとっては単なるデキない営業。迷惑な人間。
学生時代の良い子が、就職して実績があがらない、今まで見下していた人や行いが評価されるからといって、心が腐って引きこもったり、やる気を失って鬱になったり、恨みや憎しみを持ってひたすら冷笑的になったりするなら、向いてないんだよ。でも、数字を上げて、会社を支えている社員ならば、資質なんて関係なくデキる営業。必要な能力は会社の立場と取引先によって変わるしね。
原作への愛なんてサラサラなくて流行に合わせて描いて儲けちゃう人もいる
原作への愛なんてサラサラなくて流行に合わせて描いて儲けようと画策するんだけどうまくいかない人もいる
そんな感じに、非エロ系も含めて十人十色の意図をもった同人作家達が混在するもんだから、
二次創作自体、否定も肯定もしようがない気がする。
ただ個人的には、元ネタ>>>>>>(超えられない壁)>>>>>>二次創作なんだよなあ。
同人誌ってのはそれを許容できる、オタク系の資質を持っている人の手元にしか届かないし、読んで面白いとも思われない。
どんだけ同人作家がキャラクターの魅力を原作者以上に引き出せようが、元ネタの存在に依存している事は覆しようが無いわけだから。二次創作品に鳥山明や尾田栄一郎やジュビロが描く様な作品は生まれないしね。
山形での話で、しかも15年も前のことだが
人間的にどうのというレベルではなく、勉強ができるかというペーパーでもわかるような資質に問題のあるような教師がいた。
若い女性の教師でちょっとお嬢様っぽい世間知らずそうな雰囲気だった。
まぁ、当時中坊の俺の印象だから違うかもしれないけど、明らかに浮いてた感はあった。
で
実際の授業のときの話。
新しいパートに入って、いろいろ新しい英単語が出てきたのだが、その中に dinosaur という単語があった。
無理にカタカナで読みを書けば「ダイノソー」というところか。「恐竜」って意味だ。
で、その女教師はこれの読みがわからんかったのだ。で、右往左往して泣きそうになる始末。
教師と言えど、完璧超人じゃあるまいし、わからんこともあるだろう。
でも、プロなら事前にチェックしておくとか、「これは難しい発音なんでテープ聞きましょう」とか言ってお茶を濁すとか。
なんかやり方あるんじゃないかなぁ。
でも、コネで教師になれるって、当時の中坊ですらうわさしてたぐらいだから、もしかしたら、もしかしたのかもね。
当時の俺は「うわー。何コイツ」とか思ったけど、
大学時代、気にくわない講義は出席もせずノートも買わずに単位を取って卒業していた俺が来ましたよ!
自分を高める為に通う勉学の場である大学においてまでごまかしとはあまりに情けない。○○大学卒という肩書きはインチキで卒業した程度の人物でも真面目に講義に出て勉強していた者との区別はつかない。
肩書きはインチキできるけど、学んだ内容自体はインチキできない、それだけの話ですね。きちんと講義に出ていても、丸写しノートを一夜漬けした程度の理解もない人って結構多いですけどね。むしろ、実践においては講義で教えられた知識だけで事足りるということはあり得ないので、一夜漬け能力も重要ですよ。
私に言わせれば、一夜漬け野郎程度の理解もできていないできの悪い学生が、真面目に講義に出席していたというだけで単位に温情を与えられる方がよっぽどインチキだと思いますがね。
あと、どうでもいいことですが。
読書感想文なんてのは、教師が「生徒の自主性」の名の下に、予定調和的に自分のお気に召す作文を書かせる儀式なわけですね。要するに「正解がある問題」なわけです。だったら、正解をどこから探してきてそれをコピペするのは当然過ぎるほど当然。その程度のくだらない課題なんだから。俺は小学生の時は「この課題図書はつまらん」とかいちいち書いて提出してましたが、労力の無駄でしたね。
ただ、元記事やそのブクマにも腹が立つのは確か。要は単なるサボりの自己正当化とルサンチマンでしょうと。
これについては、私もcoconutsfineさんに賛成だ。「時間を節約させる」ソリューションをお金で売るのは正当なことであって、ビジネスの基本ですらある。世の中には、お金を出して時間を買いたい人がたくさんいる。
大学の中はビジネスの世界と同じ原理で動いていない、それだけのことですね。
マジメに勉強すれば成果が出るとは限らない。それは、マジメに働いても成果が出るとは限らないのと同じだ。現実の社会では、マジメさももちろん重要な資質だが、能力の違いやプロセスの違いも結果に大きな差を生む。
こういう人の言う「現実の社会」とは「ビジネスの世界」の単なる言い換えなんですよね。「アカデミックの世界」は現実じゃなくて虚構の世界に存在しているわけですか。へーえ。そういうお為ごかしの言葉を使って自分を正当化するのはよろしくないですねえ。
ちなみに、じゃあお前はどうやって単位を取っていたかといわれそうですが、自分で本を探して独学したり自主ゼミ組んだりしていました。
私の大学には、一部の教官の間でも、「講義は一手段であって拘束ではない、ただし結果は一切自己責任」という風土もありました。そのかわり、そういう教官の試験は一発勝負の温情なしだから、単位に甘いというわけでもなかったのです。
そうやって、どの講義に出てどの講義を捨てるかということを試行錯誤していく中で、「学問との付き合い方」という、ある意味では学問の中身それ自体よりも重要なことを学んで行けたように思いますね。卒業して以降、在学中に学んだ知識の全てが役に立ったとは言い難いですが、在学中に「学んだ」こと自体は大いに役に立っていると言えるでしょう。真面目に受けた講義が実はカスだったり、捨てた講義が名講義だったことに後で気づいて後悔したことも、今となってはいい糧となっていますね。
http://anond.hatelabo.jp/20080727121955
正直学校で習うことは減らされて、んでもってみんながみんな塾とか行くことが出来るかって言ったら、当然それは無理な話だと思う、金銭面とかで。だからまあイーブンではないよね、と少し思うけど、これ自体はまあゆとりはあんまり関係ないか。けど同じように塾とかいってなくて学校の授業しか聞いてなくても、まあ上の世代よりかは習うこと少ないな、うん。
しかし世の中には「これだからゆとりは」なんて言う人が多いんだよね、今まで自分たちがこんな社会システムをつくってきたのにさ。どんだけ勉強頑張ったってさ、何かあったときに「ゆとり」って属性があるが故にきっと叩かれるんだぜ?この世代。ゆとりと関係なくて、個人の資質が原因のことなんていくらでもあるのにさ。
趣味の作品をwebで公開していたら商品にしたいと打診があった
まぁ、嬉しかったわけですよ。web上に置いてることでリアルでやってるときよりも色々反応もらえたけど、更に金銭的な価値としての評価ももらえるチャンスが来たのかーって。
馬鹿だから浮かれて親に報告したですよ。
親が見たいって言うから照れくさかったけど見せた。
そしたら「え?何これ」て。
予想外の反応で「がっかりした?」って聞いたら「うん」て。
今考えるとあほらしいんだがその時は自分の一生懸命やってたことを否定された気がして頭に血が上った。
んで、親を怒鳴りつけてしまった、かなりしつこく。
冷静になれば単に親にとっては見せられたものが期待はずれで、自分にとっては親の反応が期待はずれだっただけだと思う。
でもそん時はなんかもう、子どもの時とかにも自分が夢中だったもの、やりたかったことを否定されて結局中途半端に終わったこととかも思い出して嬉しかったはずの気持ちが急激に萎んだ。
さすがに今は「あれが出来なかったのは親のせい」じゃなく、それくらいで挫折する自分の資質に問題があるよなーと思えるようになったけどそれでも時折ふと「あの時親が賛同してくれてたら何か変わってたかも」って思ってしまう。
もういい年なんだから親の反応とか気にしなくてもいいはずなんだけどやっぱり親に認められたいんだ。一生懸命やってることだからこそ親に「すごいね!」って言って欲しいんだ。とっくに成人してるのにこんなの変だけど。
なんか色々同情するな。
SFにハマった季節が来たときはそんな空想本ばっかり読んでいないで現実の本を読めと怒られた。
文学は空想だろw
増田の言う通りだよ。文学は空想だ。だからSFも当然文学だ。別に、たとえば”SF界の抒情詩人”ブラッドベリや、”哲学者”フィリップ・K・ディックだけが文学だと言うんじゃなくて、ハインラインだってアシモフだってJPホーガンだって、あるいはオレが中学時代少しエロい興味で読みふけってたバロウズだって(笑)文学だ。ちなみにオレも小学校のときは推理小説が好きだったし、純文学的なものは高校に入るまでほとんど読んだことが無かったな。高校時代には教師のすすめるままに読み狂った。まあ半分も分からなかったが。
…まあ、気の毒に思うのでもう少しサービスする。
今でも人を疑うのは好きではないが、そんなものは実戦経験で嫌でも身につく
「簡単に信用しない」といったのは「批判的(critial)にとらえて理解する」ということだ。「信用しない(distrust)」だけなら子供でもできるだろ。
「歴史」を学ぶことに文学を学ぶことと同じような効果がありうることは理解するが、それは歴史学本来の目的とは違って、単に歴史を「文学を読むように」読んだ結果ではないのか? また、部活動のような合目的的なある程度等質な人間集団で、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」が得られるかどうかは難しいな。音楽系の部活動でなら、たとえば過去の偉大な音楽との出会いなどでいくらかそれに近い体験は可能かもしれないが、誰もが使っている「ことば」を媒介にすれば全体に対して正課の授業時間内でそれができるわけだろう。部活(のそういう効果)に意味があるのなら、より低コストにかつ誰にでも体験可能な形で、国語の授業時間内でそれを行うことにはもっと大きな意義があるんじゃないのか。
それに人を楽しませる文章は文学なのか?
時代小説、ラノベ、歴史書、SF、ファンタジー、推理小説は好きだが文学
少なくとも純文学とは言わないだろう
「純」文学というのは、文学の中のものすごく狭い(それも日本限定の特殊な)ジャンルに過ぎないので、その変な教師に教え込まれた変な定義は正直忘れた方がいい。実は、増田の受けた教育の中でもっとも有害なのがその頑なな思いこみだと思う。俗に、教え込まれた「内容」よりも自然と学び取る「根本姿勢」こそ教育の本質的な価値だというが、増田の場合、まさにその「根本姿勢」の部分でバッチリその変な教師の影響を受けている(だから気の毒に感じるのだが)。
再度言うが、上で書いたとおりSFは当然文学だしラノベだって文学に決まってる(疑うなら、どこの大学の文学部文学科の適当な研究室に電話して、気の済むまで聞いてみても良い、以下の内容も含めて)。大体「純文学」などというジャンル分け自体が、過去の歴史上のある特殊な「考え方」に過ぎないというのが、現在の一般の評価。純文学新人賞という主旨のはずの芥川賞にしてからが、最近は(大衆文学新人賞という主旨の)直木賞と見分けがつかん、というより正直受賞作は逆じゃねえのか、と言われるようになって久しい今日この頃。だから、生徒に「純文学こそ文学!」とかそういう価値観を押しつけてブンガクばかり論じたがる古い文学青年崩れの困った教師に教わった不幸には同情するが、とりあえずそれは忘れて、現代の「文学」観に目を向けるべき。たとえば、今や現代思想をまともに語れないようでは高等学校現代文教師というのはやってられないのだぜ。
その証拠に、昨今の大学入試の「現代文」というのがどういうものを取り扱っているか。小説(それも純文)なんてほとんど出ない。出るのは大抵現代思想関係で、ざっとキーワードを例示してみると「記号・身体・空間・言語論・メディアと情報・文化論・芸術論・経済・教育・日本論・近代主義・心理学・倫理学・宗教・歴史学・国民国家・テロ・文明の衝突・ポスコロ」……etcだ。大抵の国語教科書は、これらのテーマに可能な限り触れるようにしてるし、これ以外のマイナーなテーマ(たとえば少数民族問題・沖縄・差別・風景論・都市論・スポーツ・時間論・労働・高齢化社会…etc)を取り扱ってそれをウリにしようとしてる(さらに言えば、気の利いた会社なら、中学校の教科書から生徒が自然とこれらのテーマに触れるように仕組んでいたりする)。教師はそれを意識して、生徒の理解力と相談しつつ、何をどのくらいどういうシステムで学ばせるか考えてる。このへん詳しく知りたければ「教養としての大学受験国語」(石原千秋)でも読んでくれ。さらに、小説の読解についても、「この小説のテーマはなんでしょう?」なんて寝言を言って漫然と黒板の前でむにゃむにゃと自説を垂れ流してるようでは商売あがったりで、一行一言に込められた含蓄をあの手この手でどのくらい掘り起こせるか、読む作業の中にセンスオブワンダーを感じさせることができるか、たとえばわずか一つの比喩にどのくらいの意味と力が籠もっているかを解き明かせるか……それだけの文学理論の裏付けと力量が必要になる。これ全部「高校国語(現代文)」の仕事なのだな。
それに、「学校国語」で扱える領域なんて、実際に大人が出会う「国語や文学」の領域全体の広さに比べれば、庭の池みたいなもんだ。雑誌の編集後記だってエロ小説だって新聞記事だって漫画だって、「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学」フィールドだ。その意味での「文学」教育というのは、メディアリテラシーの教育であり、社会学であり哲学教育であり、知的好奇心の喚起であり、ひいては大学以降のあらゆる高等教育の基礎を為す重要な資質(少なくとも読み書きという点だけを取っても)の育成なわけで、これから「知の大海」に漕ぎ出す生徒にとって国語が必修科目であるのは当然すぎるほど当然なことなのだ。
まあそんなわけで、困った「国語教師」との出会いには重々同情するが、「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシーは情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える、とかしてくれると、かなり楽だが、多分嫌がられるだろう。なぜなら、これらを教えるための大前提としてあらためて『膨大な本を読まなくてはならない』から。だから結局、これらは国語の教師がやれということになってるのではないかと推測する。そんなわけでこれらの提案は余り現実的ではない。やれやれ。)現実的な対案を示して頂く必要があろうと思う。
どうだろう。増田の言ってるような狭い意味での「ブンガク」授業に価値がないということを否定しているのではない。むしろそこに関しては積極的に同意だ。こちらが言ってるのは、あくまで「国語」というのがもっと広い領域を扱っているということ、だからこそ「国語」を否定するのは間違いで、実際にそれは必要とされているのだ、ということなんだよ。
優秀な奴はリア充だとかそうじゃないとか言われるけど、そんなわかりやすい関係はないと思うんだけどなあ。
チームワークが必要だからな
実験系やシミュレーション系はそうかもしれないけど理論系は違うよ。あれは個人プレーだからね。
いや、その「コミュ能力」は世の中で言われてる「コミュ能力」と違うから。その種のコミュ能力は、むしろオタが同好の士とマニアックトークをしたり同人を運営したりするときの「コミュ能力」に近い。
たまに見るからにヤバイ天才とかいるけど、それは例外だな。
つまんないことにもシコシコ没頭できる力のが重要だったりする
の奴が向いてたりすることもあるかもしれない。
たぶんあなたの言ってる「学業」のは「研究者としての能力」じゃなくて、世間で「優秀な学生」と呼ばれるための能力なんじゃないかな。コンサルとか外資金融とかに採用されるような。そういう目先の利く奴はそもそも研究者なんかならないからね。
「性的な事に関して嘘をついた」ってのが主題じゃね?
わかりやすい例を出せば、結婚後であれば、浮気(配偶者以外の異性とのセックス)は離婚の理由、「配偶者としての重要な資質に問題がある」ことになる。
まあ今回の場合は結婚する前だから、共感しづらい部分もあるんだけど。
この件で「嘘をついたこと自体に対しての罪なんだから女性の地位とかは関係ない」的なことを言ってる人がいるがちと論点がズレていないか?
たとえば「昨日うんこが出たっていったけど、ゴメン実は昨日は出なかった。今日の朝出た」とかいう嘘をついた、それで離婚だといわれたとする。……通るか?まず通らないだろう。嘘をついたら即離婚が認められるわけでは当然ないわけで、じゃあなんで嘘をついたことで離婚が認められるケースがあるかっていうと、それはざっくばらんにいえば「その嘘が離婚するに値するほど酷い嘘だ」と認められるケースがあるからってことだ。要するに嘘をついただけで離婚ってわけじゃない、問題はその嘘の「程度」にかかっている。離婚に値するほど重大な嘘か否か、そこに問題はあるわけだ。
で、今回は、「処女だ」という嘘が、その「離婚に値するレベルの嘘だ」と認められてしまったってことだ。
それはつまり、「女性は処女の方が価値が高いのであって、非処女では価値を偽ったこととなる。それは重大だ」という背景が裏にあるということ。
というか逆に言えば、「別に処女でも非処女でもそんなことはささいなこと」というのならば、ならばなぜそんな些細な嘘で離婚が認められるのか、「昨日うちのダンナが風呂へ入るっていったのに入らないまま寝ちゃったんだけどその嘘も離婚理由で通るわけ?」っつーことになってしまう。
てーかなんてったって、モロに書かれてる。
判決は、この男性にとって女性の処女性が結婚の決定的条件だったとして、女性のうそは
民法で婚姻無効を求める要件「配偶者としての重要な資質に問題がある場合」にあたると
判断した。
な。「嘘をついたから」じゃなくて、「処女性が無いということが、配偶者としての重要な資質に問題がある」と認められたから、なんだよ。この「配偶者としての重要な資質」というのは処女性に他ならない。そうでなくば、その前の「判決は、この男性にとって女性の処女性が結婚の決定的条件だったとして」の文章と繋がらない。「嘘をついたというそのあくどさ」ではなく、あくまで「処女性が無い」ことが「配偶者としての重要な資質に問題がある」と言われたのであり、反対している人は勿論そこを読み取って反論しているわけで、そこへ「嘘ついたんだから」とか言うのは的外れているように思うのだが……どうだろうか。
現代文風に読解すると
「女性のうそ(→実は非処女ということ)は民法で婚姻無効を求める要件「配偶者としての重要な資質に問題がある場合」にあたると判断した」
→
「『実は非処女という事実』は、民法で「配偶者としての重要な資質に問題がある場合」にあたると判断した」
ってこと。「女性のうそは」は「女性が嘘をついたという事実」ではない。もしそれならば、さっきも言ったがその前の「判決は、この男性にとって女性の処女性が結婚の決定的条件だったとして」の文章がある意味が不明だ。「男性にとって女性の正直さが結婚の決定的条件だったため」という文章だったならば、「女性が嘘をついたという事実」が根拠ともなろうが、あいにくそうではない。
……まあだが、その上で、これが単純に問題かというとそれはまた別の問題で、非常に難しい。
なぜなら宗教が絡んでいるからである。
大学院からでも編入可能だろう。少なくともそこで挽回はできるはず。
後は学者か、官僚か商売人として目が出るように努力するしかない。これは、自分の意志な。
同じぐらいの資質の生徒が、大都市では「お前は今までマイペースでやってきたから現時点での成績はよくないが、本気でやればどこの大学でも行ける。やりたいようにやれ」と言われ、地方の学校ではこういうことを言われたりする。その差がどこにあるか考えてみるといいよ。
自分がはめた器の大きさに、自分が収まってしまっただけのこと。
大都市でも器の小さい教師もいれば、そうでない教師もいる。
しかし、出会う教師はその一人なのだから、結局わからないものだよ。出会いなんだから。
ただその言われたことを信じてしまったのは、彼の選択なんだから仕方ない。これも自己責任。
最後に、君は苦学生というのを知ってからそういうことを言うべきだな。あれはなかなか苦しいものだが、苦学生にすらなれない人というのもけっこういるものだよ。
というのかね、ウォーリーを探せじゃないけど、どの程度の割合で、君が言うところの
「埋もれている原石」があるのか、そいつを見つけ出すためにどれだけの金を投下すればいいのか、
そのリスクを誰が負うのか、そこがはっきりしない。
そら街中歩いていれば一億円が落ちているかもしれないけど、普通はしない。とりあえず竹やぶにいけと。
思うところとしては、大卒の資格を得るためだけの大学なんていらないと思うし、
入試制度などの選抜方法を改善したり、一本道のキャリアパスみたいなものを
改善していったほうが、まだほどほどの宝石未満を拾える可能性は高まるだろう。
ためにする議論だな。他に要因として合理的に想定できるものを挙げてからそういうことは言ってくれ。
どのように合理的に選ばれたか説明はされていない。
「自分の意志だ」と簡単に解決してしまっている君の方だ。
大学でミスをしたとしても、少なくとも高校時代とは選択肢の多さが変わっているのだし、
4年の間に何か行動に移すことは出来るだろう。そこで自ら何か出来ないやつは、たぶん将来もダメだろう。
全くその通り。同じ行動に対してどういう結果が得られるかで人間の行動なんて変わってくるものだ。だから「自分の意志」で全部を解決することはできないのだ。
まあ誰も自分の意志でなんて全てを解決できるなんて言っていないんだけどな。
というのか、最高の選択肢が最高の結果を呼び込んでくれるわけでもないし、
最高の結果を今得ている人が、必ずしも最高の選択肢を取ってきたわけでもない。
さらに、最高の選択肢をとるために、どれだけリスクをとってきたかも見落としている。
誰も全知全能の神じゃないんだから。神なら将来の結果を見越して正しい選択肢を教えてくれる。
明日どこで地震が起こるから、どこそこには行かないように、とか。
君はそんなことを期待しているんだろう?w
エリートコースを歩めば、万事楽かと言えば、社内の競争も激しいし、
体がぼろぼろになるとかいろいろあるだろう。にもかかわらず、ちょっとしたミスで
左遷されれば、人生終了のベルがなるのだな。それが外部の変動で起こることもある。
それに対して、程ほどの学歴でもほどほどの人生が送れることもあるだろうし、
女性であれば、結婚して意外な幸せを見つけることなんてこともある。
まあそういう運と選択と両方の積み重ねで決まってくるものなんだから。
いずれにしても、何らかの芽をつんでいくことでしか、先は開いていかないとも言える。
君の文章を読んでいると、曽祖父が誰それと結婚していたら、もっと血筋のいい家系の子弟となり、
もっと優れた人生を送れた、とでも言えそうな感じだwそういうのも運と自己選択の掛け合せの結果だから。
君は地方から東大生が生まれるように、「大きな世界」を紹介してやったらいいじゃない。
そうやって情報弱者が機会を得る努力をするように支援する。だけど、彼らが東大に行っても
周りの優秀さに怖気づいて引きこもるかもしれない。そして君を恨むかもしれない。
そんな時に備えて、それは彼らの自己責任だよ、と刷り込んでおかないと、自分の身が危なくなるかもね。
だけど君がそんなリスクを抱え込んでしまうことも、自己責任だと認めないといけないのだが・・・
ちなみに、僕の「自分の意志」を言い変えると、「もう変更できないこと」の意味に近い。
ミスしたかもしれないけど、もう後戻りできない固定されたものであると見なす。
だから悔やんでも仕方がなく、改善するために何かをする、それの積み重ね。
いや、相手は法律的にも社会的にも未成年だからね。本人の意志は全て自己責任とはいかんのよ。
難易度の高い大学へ行きたいと思っている人間の男女比がぴったり1:1なら「選択の機会を奪っている」と言っても差し支えないと思うが、それを示しているデータはちゃんとあるの?
データなんか必要ない。その男女比が一致しない理由を合理的に考えると社会的要因が働いている以外には考えられないよ。個性の差は膨大な標本数で吸収されてるからね。
こと入試に関しては機会自体を得る手段は十分あるのだから、それは自分の意志だろう。
同じぐらいの資質の生徒が、大都市では「お前は今までマイペースでやってきたから現時点での成績はよくないが、本気でやればどこの大学でも行ける。やりたいようにやれ」と言われ、地方の学校ではこういうことを言われたりする。その差がどこにあるか考えてみるといいよ。
例えば、誰しも社会に出ると、学生時代にもっと勉強しておけばよかった、と後悔することが多いが、勉強する機会自体は十分与えられている。
さっきも言った通り、未成年者の意志に完全な責任を問うべきではないし、問えない。だいたい「自分のおかれた位置を客観的に判断し、それにもとづいて判断し、行動できるようにすること」というのは大学生頃の時期に身につけたりすることだよ。最後に、君は苦学生というのを知ってからそういうことを言うべきだな。あれはなかなか苦しいものだが、苦学生にすらなれない人というのもけっこういるものだよ。
それだけでは因果関係までは説明できないことは言うまでもないし、機会格差が主たる原因であるかは、わからないではないか。
ためにする議論だな。他に要因として合理的に想定できるものを挙げてからそういうことは言ってくれ。
ちなみに、機会は平等だとは言ったが、「どこまで戻れば平等なのか」ということは非常に難しい話であって、そう簡単にけりがつく話ではない。
そんなことは当たり前だ。そしてその台詞を噛みしめるべきはむしろ、「自分の意志だ」と簡単に解決してしまっている君の方だ。
男性より女性の方が、難易度が高い大学へ行く事へのメリットが少なくデメリットが多いから行きたがらないのではないか。
それは「機会選択の格差」ではないのか。
全くその通り。同じ行動に対してどういう結果が得られるかで人間の行動なんて変わってくるものだ。だから「自分の意志」で全部を解決することはできないのだ。