はてなキーワード: 緑内障とは
前回:http://anond.hatelabo.jp/20100805013139
また大分間が空いてしまったけれども。
今はとても穏やかに時を過ごしている。何もすることもなく、何かしなくてはいけないこともなく。ただ、浅い眠りをうつらうつらと繰り返し、意識が清明なときだけネットを見たり、外に出かけたりしている。好きなゲームにはほとんど手を出していない。アニメは…ちょっと見るようになった。劇場で「インセプション」を見られるようになったというのは、自分では大進歩だと思っている。題材的にも、劇場へ足を運ぶという行為自体も、前の状態だったら絶対に無理だっただろう。
そして、この平穏があと2週間くらいしか続かないことも、知っている。
まずは眼科。これは生活上目が見えなくて困っていたからで、眼鏡とコンタクトの処方を変えることで大分改善した(あと、生活環境をMacに替えた)。緑内障の恐れがあるから、視野検査も受けなくてはならないが…。
次に歯医者にいくことにしている。十年来奥歯に痛みを抱えていて、これは生え方がおかしい、いわゆる「埋没歯」というやつなのだが、こいつの手術をしなくてはならない。入院がいるだろう。そこまで派手な治療をしてくれる歯科の心当たりはないので、聞いて回らないとダメなのだろうな。
あとは耳鼻科で耳垢を取ってもらう(俺のは医者にやってもらわないとマズいらしい。素人は手を出すなといわれている)とか、メニエール氏病の検査を受けたりしなくてはならないが、このへんはまあいつでもできるし、重要でもない。
問題は、循環器科案件。この件について知っているのは家族と親しい友人数名だけなのだが。俺は首の動脈に爆弾を抱えている。何らかの弾みでこいつがはじけたら一発アウトのあの世行き。手術することもできるのだが、その後のケアが大変すぎるのと、そもそも成功例があまり多くない? らしく「ほっといてポックリいったほうがいいですよ」などと言われる始末である。どちらにせよ、そう長くは生きられそうにもない。この休職の間にこの案件を片付けるか。それとも忘れたふりをしているか。さすがに忘れてしまうことなど出来るわけもない。ちなみにこの爆弾が原因で、俺は1日に大量のボルヴィックを浴びるように飲んでいる。血の巡りが悪くなるとこの爆弾に着火する可能性が高いからだ。
この休職により、ついに俺は社会的に死を迎えることになった。後は生物学的な死だ。むろん、お金が稼げず飢え死にするなどということは充分に考えられるが、それよりもこの満身創痍の状態でいつまで耐えられるのか、のほうが問題だろうと思っている。
結局のところ、俺はもう半分死んでいて、近々完全に死ぬのだ。それが自らの意志なのか、それとも抱えている地雷が爆発するのか、それとも別の原因なのかはさておき。時期もなんとなく、休職の明ける11月くらいなのだろうな、と言うのがうっすら見えている。一応増田たちに責任をかぶせたくないので、いわゆる「自殺」を積極的に選ぶことはしない、ということは約束する。ただ、そういう状況に追い込まれてしまったときには、謝って許してもらえるだろうか。…無理だろうな。それでも謝っておく。ごめんなさい。
今はとても穏やかに過ごしている。死んで行く事への恐怖を除けば。
再チャレンジ不能である世の中というのも案外よいもので、あの血を吐くような苦労をして、それが結果徒労となり、砂の城が崩れ落ちていくこと自体、しなくてすむというのは、とても楽な気持ちになれる。あるいは成功したとしても、それは誰かの生き血をすすり、返り血を浴びた結果であることは承知の上。そんな汚れた人間が大地に両足をつけ、太陽を仰ぐ、みたいな非道い生き方をしなくて済むのは、楽だ。
むろん、自分の作っていたものには「命をかけてもいい」と思っていたのも事実だ。ただ、会社に「命をかける必要なんかない」と言われてしまった時点で、俺のあの案件への情熱は冷めてしまった。プロとしては失格。しかし、実際に掛け金に命を賭けろと強要していたのは、どっちだ? むろん、言い出したのは俺だが、その結論に陥るトラップを入念に準備していた人たちがいたのは知っている。
そう、結局社内政治と自分の弱さに負けたんだ。そして今もまだ負け続けている。
あとは願い。完全にくたばってしまう前に、自分のやりたかったことを、形として残しておきたいと思っている。それに何日かかるのかは分からないし、なにせ相手のあることだ。そううまくはいかないだろう。それでも。俺にできるだろうか。時間が普通にあって、記憶力が常人なみで、集中力が続くのであれば、なんでもなくできること。そもそも、そんなこと、俺がやる資格があるんだろうか。
わからない。怖い。そうしたまま、今日も夜が過ぎる。
我が実家を守っている猫がいます
アビシニアンの「テト」です
機敏な動きと軽快なジャンプ!
定位置はすっごく高い冷蔵庫の上
(暖かいみたい)
もちろん家主として家族以外は侵入を許しません
(被害にあった友人多数…)
このテトのために買ったマンションなのです
大家「捨てるか出てくかどっちかにして!」
と急に言われて
親「出てきます!」
と即答
流石です、うちの親(笑)
こうしてテトは私が高校生の頃から13年間ずっと家を守り続けてます
先日、実家に帰りました
綺麗だったエメラルドグリーンの目は濁っていて何も見えていないようです
ご飯も食べれずガリガリなってしまい
動くこともままならない
でも、誰かに触られてないと不安になって
無理して歩きだしちゃう…
用事のあった私は、テトに
私「ご飯をちゃんと食べるんだよ」
と約束して、家を後にしました
でも家を出てすぐ涙が止まりませんでした
そう長くないことはわかってしまったんです
そして、次の日
テトは私の約束を守る体力もなく
親の胸の上で
息を引き取ったそうです
大好きな家の
大好きな親の胸で
最後を迎えられた
テトにとってすごく幸せだったと思います
私の勝手な思い込みですが
テトは私が実家に寄ることを知ってて
待ってくれたのかもしれません
会えてよかったよ
今までありがとう!
そして、今でもテトは実家の主です
これからもよろしく!
※この日記で気分を害する方もいると思いますが
テトが生きてた記録として残させてください
欧米の新聞社では、死亡記事部を設けて日頃から著名人についての経歴などの情報を収集し、各著名人ごとに死亡記事の準備稿を作成してその死去に備えているのが一般的とのことで、当然死亡記事を専門に書く記者も存在するそうです。死亡記事の多くは、死因や享年などの具体的な情報だけを列挙した無味乾燥なものではなく、その人の人生を振り返り簡潔かつ文学的にまとめた職人芸のようなもので、時には「作品」と呼びたいような読み応えのある死亡記事も登場します。
死亡記事部に配属された記者は、毎日のように死亡記事を執筆し数え切れないほどの人の死を見つめることにより物の見方や人生に対するスタンスも変わってくるのではないかと思われますが、配属3年半で800以上の死亡記事を執筆してきたボストン・グローブ紙の死亡記事専門記者Bryan Marquard氏によって、仕事を通じて得た人生の心得6つが明かされています。
詳細は以下から。
6 life lessons: from the dead - Boston.com
その1:人に優しくすること。
単純なことのようですが、「自分が死んだあと、人の記憶にどう残るか」という視点で「優しさ」について考える機会はなかなか無いのではないでしょうか?人生においてどんな偉業を達成した人でも、生前の人に対する接し方は、死後人々の記憶にどう残るかに大きく影響するとのことです。
その2:意地悪をしない。
死亡記事部に配属されて数カ月後にMarquard氏は非常に長生きした女性の家族にインタビューする機会があったのですが、成人した子どもの一人に「お母さんは天寿をまっとうされましたね」と話しかけると、「ああ。ボストン・イタリアンだったからさ。ボストンのイタリア系は殺しても死なないんだ」と切り返されたそうです。母を亡くしたばかりの子どもたちの言葉が通常予想されるような反応と違ったのは、どうやら生前お母さんがいわゆる「意地悪ばあさん」のような人となりだったためらしく、結果的に子どもたちのコメントの大部分は記事には引用されず、長い人生の割にとても短い死亡記事となってしまったそうです。
その3:長生きしたいなら、若いうちにリタイアすること。
親は人生の教訓を子に伝えたがるものですが、これもその一つで、Alfred Larkin Sr.氏が息子で元ボストン・グローブ副編集長のマイケル氏に伝えたもの。家族が集まった時にマイケル氏を脇へ引っ張り、「僕からのアドバイスは、可能な限り早くリタイアすることだ。この10年で、その前の50年分を全部合わせたより多く、楽しいことがあった」と伝えたそうです。Larkin氏は隠居生活を満喫し、92歳まで生きました。
その4:もしくは、生涯リタイアしないこと。
アーティストのPolly Thayer Starrさんは赤ん坊のころ、鉛筆を持てるようになるや否や絵を描きはじめ、緑内障と加齢黄斑変性により視力を失いつつあった80代のころにもまだ素晴らしい作品を描いていたとのこと。視力を失った後は、散歩中に友人たちが読み上げる詩を記憶し、常にクリエイティブであることにより、101年間の充実した人生を送ったそうです。Starrさんは彼女をかきたてる芸術的情熱について、「天の猟犬(Hound of Heaven)なのよ。いつも追いかけてくるの」とスミソニアン協会のインタビューで笑い混じりに語ったそうです。
その5:金持ちである必要はない、家すら持たなくてもいい。
Harold Madison Jr.氏、通称「Mr. Butch」はボストン大学付近のKenmore Square一帯やハーバード・ビジネススクールを擁するAllstonのハーバード・アベニューで30年間にわたり路上生活をし、学生を中心とした数万人の人々に親しまれている有名人だったそうです。飲み過ぎて酔っぱらった時には少し怖がられてもいたようですが、ファンによりWikipediaに項目が作られたり、MySpaceにページが作られ、YouTube に動画が投稿されるほどの人気者でした。2007年に交通事故により56歳で亡くなった時には盛大に追悼パレードが行われたそうです。
その6:今、行動に移すこと。
「800人もの死亡記事を書いていると、山の上で一人黙想する仙人のように、人生を変えるような深い洞察を得られるのではないかと人々は考えます。人生における答えのない深い問いに対する回答が得られたということはありませんが、確かにある意味人生が変わったかもしれません」と語るMarquard氏。「死について頻繁に考えるおかげで、去年、もし自分が父と同じ寿命を持っているのなら、残りあと25年だということに気付きました。そのひらめきは、ボストン都市圏からバーモント州の小さな町へと引っ越すきっかけとなりました。ボストンへの通勤時間は長いですが、今住んでいる町が大好きです。前々からやりたいと思っていたことを、いつまでも後回しにすべきではありません。死亡記事記者として自信を持って言える教訓です」
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20091220_memento_mori/