はてなキーワード: 政治的対立とは
「合理性」という概念について誤解してるらしきブコメがいくつかあるので追記。
合理性は個人の感情や欲求と相反するものではなく、むしろそれを前提にしている。「なぜそうするのか、そうあるべきなのか」という問いに対して、最終的に「自分の感情や目的がしかじかだから」と答えることはまったく合理的だ。合理性にもとづけば、前提(欲求)がちがえばちがう帰結(どうあるべきか)が出てくるのは当然である。だからこそ、お互い求めるものがちがいますね、じゃあどうしましょうねという話ができる。
たとえば、伝統を大事にしたい人が「伝統に即さないものを見ると自分の感情を害されるから、伝統を大事にすべきだ」と主張するのはまったく合理的だし正当なものでもある。リベラルな立場からすれば、それを認めたうえで、その個人的な欲求が、ほかの人の欲求と照らし合わせたときに押し通すことができるものなのかどうかという話になる。
しかし、保守的な思考をする人は、そういうしかたで自分の主張の理由づけをしない。端的に「これが現状だから」「過去こうだったから」という説明しかしない。それではリベラルは納得しないが、保守はむしろそれで納得するのだろうという話。
あとついでにいうと、現代の日本(のネット)において「保守/リベラル」「右翼/左翼」とラベリングされているものには関心がない。もっと根本的なレベルでの考えかたのちがいの話をしている。そして、そのちがいは、従来「保守」と「リベラル」と呼ばれてきた政治的対立の根底にあるものだろうと。
「保守/リベラル」というラベルは、たとえば幕末期の「尊王/佐幕」とか「攘夷/開国」と同じように、多様な対立軸をごっちゃにしたかたちでつかわれていて、もはや有意味な内容をもっていないかもしれない。その意味で、このラベルを持ち出したのは失敗だったかもしれない。たぶんノーランチャートのような2軸4象限あるタイプのスペクトラムを持ち出したほうがよかった。