はてなキーワード: 公理とは
数学的な論証のシステムを持ち、神はいるという公理を持つ宗教は、可能だと思うけど。
んん? 公理は確かに無前提にそこにあるものだけど、数学の立場としては「この公理を前提としたら、こうなる」という話をしているわけでしょ。
「神がいるとしたら、こうなる」という仮定つきの話をしている限り、それは宗教じゃないんじゃないかなあ。
証明は出来ないけど、とにかく神がいることを信じる、という跳躍 (leap of faith) が、宗教を特徴づけるものなんじゃないかなと思うので。
偏らない見方だから、中立。先に観念を入れないから、無心。
あたりじゃないのか。
正しい、間違ってる、というのは、
ある問いを立てた時の答え、という意味しか無いんじゃないかな。
その答えを「正答」とするか「誤答」とするかは、常に系に寄るし。
そして、系はその系自身では、無矛盾性を証明できないし、証明できない命題が常に存在する。
だから、「正答」も「誤答」も、単にその系の中でのみ通用する「答え」にすぎないってことだろ。
異なる公理系に同じ問いを与えても、「正しい答え」は公理系の数だけある。
違う系の人と話してるときに、正しさについて議論しても無駄なのは、その辺に答えがあるんだと思うな。
だったら『ワタシ正しい!』みたいな空気出すのやめて欲しい。
内なるものを吐き出すという意味では本人にとって有益なんじゃないか。
個人的には増田はそういう使い方がふさわしいのではないか、と思う。
万人にとって意味のある議論である必要はないような。
気の置けない人と話すときか好き嫌いを問われた場合を除いて
どうも
http://anond.hatelabo.jp/20081001102844
の増田です。
追記のし過ぎで自爆しました。
まあ、これも一つの経験ですよね。
では何故無難なのか、自分なりに整理がついたので書き綴ってみる。
まだ不完全ではあると思うが、何か矛盾点等あったら指摘してほしい。
理由は2つある。
1つは嫌いと主張した本人にとってデメリットがあるから、
もう1つは不快に感じる原因はどちらも嫌いと感じている人にあるからだ。
どういうデメリットがあるか、
それは「ああ、この人は嫌いだから文句つけてるんだな」というように見られ、
まともに聞いてくれないかもしれないからだ。
勿論理由があって嫌いになったのか、嫌いだから文句をつけているのかわからない。
しかし、好き嫌いというのは元々感情であり、根本的には理由なんか無いのだ。
好きだから好き、嫌いだから嫌い
故に「嫌いだから文句をつけている」と思われ
例えそれが正当な主張であろうとも、聞いてる人は本気に受け取らないかもしれない。
感情をさらけ出したいなら理由を付けずに嫌いと言えば良い。(ただし、何でも嫌う人間は嫌われるリスクを負う)
何か改善してほしい、やめてほしいことがあるなら嫌いなどと言わずに最初から理由を述べればいい。
感情に訴えずに、合理性や利便性を説いたほうが受け入れられ易いのではないだろうか。
これが1つ目の理由。
もう1つはid:z0racさんの指摘を受け、改めて考え直したところ達した結論だ。
「不可視の基礎付け」という言葉がいまいちわからないし、ググっても出てこなかったので
「勝手にお前の考えを公理にするな」という意味で捉えた。違ってたら指摘よろしく。
確かに私は元増田の文章で、
嫌いという主張 → 不快になる人がいる
好きという主張 → 不快になる人が少ない
と勝手に決め付けている。
この理由は自分の中では自明なのだが、言語化できなくて今も困ってる。
確かに好きという主張を続けられると不快になることもある。
だが、その不快になる理由は自分のせいであると考えている。
以下は上記決め付けの元となっていると思われる自分の考えである。
「嫌い」は「拒絶」である。
嫌いと主張されて不快になるのは、この拒絶感が原因だと考えている。
好きでも無い物を嫌いと主張されてもカチンとくるのも、
主張から拒絶を感じてしまうからではないだろうか。
逆に好きと主張されて不快になるのは、
自分の嫌いという主張を拒絶されてるように感じるからではないか。
しかし、好きという主張自体に拒絶の意思は無い。(拒絶のためにわざと好きと主張する場合を除く)
つまり、好きと言われて不快に思うのも、嫌いと言われて不快に思うのも、
嫌いと感じている人が拒絶を生み出しているからとなる。
わざわざ拒絶を生み出してまで、何故人は何かを嫌わなければならないのだろうか。
もちろんそこに理由など無い。
好きだから好きであるように、
嫌いだから嫌いなだけである。
好き嫌いは個人の自由だ。好きだろうが嫌いだろうが何も問題は無い。
しかし、わざわざ拒絶を表に出す必要があるだろうか。
わざわざ拒絶を表に出し、人から拒絶される必要があるのだろうか。
拒絶から生まれるものも確かにある。
だが、拒絶しか生まない拒絶の表明があるのも確かだ。
以上により、「嫌い」と主張しないほうが無難であると主張しました。
嫌われ者の増田からの提案・提言・戯言とでも思って、覚えててくれたら幸いです。
では
<追記>
指摘ありがとう。ホントすみません
「気の置ける人」→「気の置けない人」
cf.) http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
まあ、どのくらいの数の数学オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らない数学の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、数学のことを紹介するために覚えるべき10の事柄を選んでみたいのだけれど。(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女に数学を布教するのではなく相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、思考的に過大な負担を伴う21世紀の数学七大難問は避けたい。できれば学部レベル、難しくてもマスターレベルにとどめたい。あと、いくら数学的に基礎といっても義務教育を感じすぎるものは避けたい。数学好きが『三平方の定理』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。そういう感じ。
彼女の設定は
数学知識はいわゆる「高校数学」的なものを除けば、テイラー展開程度は使える
理系度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「ブルバキ以前」を濃縮しきっていて、「ブルバキ以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。ページも7000以上だし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な原論について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな証明(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「数学オタとしてはこの二つは“検証”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種の難問数学オタが持ってる公理への憧憬と、ヒルベルト教授の数学オタ的な考証へのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもヒルベルト的な
「証明できないことを証明するカッコよさ」を体現する連続体仮説
の二つをはじめとして、数学オタ好きのする問題をちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「ドーナツだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の学問がその後生み出されていないこと、これが近代では大人気になったこと、欧州なら定理ラッシュになって、それが日本で花開いてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのが生み出されないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりゲーム理論は役に立つものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「囚人のジレンマ」でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この概念にかけるナッシュの思いが好きだから。
断腸の思いで選びに選んでそれでもパレート効率的ではない、っていうあたりが、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「部分最適戦略」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
ナッシュ均衡による戦略を俺自身はダメとは思わないし、もう選択しようがないだろうとは思うけれど、一方でこれがアメリカや旧ソ連だったらきっちり冷戦にしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて部分最適戦略を選んでしまう、というあたり、どうしても「自分の利得を最大化してきたものが捨てられないオタク」としては、たとえナッシュ均衡がそういう概念でなかったとしても、親近感を禁じ得ない。概念自体の一般性と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層でエウクレイデス(ユークリッド)見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
キリスト生誕よりも前の段階で、数論とか初等幾何とかはこの原論で頂点に達していたとも言えて、こういうクオリティの数学書がエジプトで紀元前に書かれていたんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく数学好きとしては不思議に誇らしいし、いわゆるマス北野を数学者と思ってる彼女には見せてあげたいなと思う。
フェルマーの最終定理の「設問の単純さ」あるいは「投げっぱなし感」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「この余白はそれを書くには狭すぎる」的な感覚が数学オタには共通してあるのかなということを感じていて、だからこそアンドリュー・ワイルズの行き着く先はフェルマーの最終定理以外ではあり得なかったとも思う。
「一般化された予想問題を解く」という数学オタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の源はフェルマーの最終定理にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういういかにも簡単に解けそうな作図をこういうかたちで問題にして、その証明が非オタに受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9個まではあっさり決まったんだけど10個目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的に数学ガールを選んだ。
ブルバキから始まって結城浩で終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、ネット時代以降の数学萌えの先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10個目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
非モテ周りの議論を見てると「ミソジニー」って言葉がバズワード化してて気持ち悪い。Web2.0だの見える化だの人間力だのって言われるのと同じぐらいうんざりする。
この記事なんかは本質的にはそこそこバランスが取れてると思うんだが、本来の意図で理解している奴がどんだけいるのだろうか。
何でかっていうと、この言葉を使ってる人間が頭に思い描いているイメージが違いすぎるから。例の覚悟閣下みたいな「女はすべて死ねばいいのに」みたいな奴だけを「ミソジニー」と呼んでいる慎重な人もいれば、「私のご機嫌を取らないキモい非モテはミソジニーなのよ♪」みたいなスイーツ(笑)みたいな奴も僅かながら存在する(それこそ2chの非モテヲチスレとか)。
そしてしまいには「ミソジニー」って言葉が独り歩きして、非モテ界隈で「ミソジニー」という言葉をはじめて知った連中のなかには、「非モテはミソジニーである」ってのを公理のごとくに天下り的に受けいれてる奴も少なからずいるような気がする。
これでは、話がカオスになるのも当然で、その結果がナツさんとmyfootさんに象徴されるように、お互いの言い分を悪意で解釈して罵倒し合うという不毛な現状じゃないだろうか。
「どうして小、中、高の教育カリキュラムの中に算数や数学が含まれているのですか?」
「理由は二つあります。一つは社会生活を営む上で最低限必要な知識を習得するためです。例えば、数字や四則演算は物の数を数えたり、暦を見たり、町で買い物をしたりする時に必要です。少し込み入った話になると、ローンの利息計算などの資産管理や、移動時間の見積もりなど、数学が必要な場面はたくさんあります。
もう一つは進路保証のためです。専門的な職業につく場合において、より高度な数学を必要とする場合があります。測量、統計調査、機械設計などがそれにあたります。これらの作業を行う際には三角関数、微分積分、数列、グラフ、オートマトンなどが必要になってきます。子どもたちは中学、高校を卒業したあたりから進路を考え始めると思いますが、それまでに、どんな職業でも通用するような基礎的な知識や学力を蓄えることが、数学に限らず、学校のカリキュラムの意義だと思います。そうでなければ、若いうちから子どもの可能性を奪ってしまうことになるという危惧があります。
数学はあくまで便利な道具すぎませんので、必要なければ微分積分などを無理に覚える必要はありません。
必要なときに必要な数学を学んでいただければ、それで十分だと思います。文系、理系を問わず、どんな方でも、実際に使用する公理、公式以外には興味がないことがほとんどです。」
実験!? 誤差!? ぼく中学生でちゅか?授業きいてないんでちゅか?
…まさかゆとり教育だから知らないなんて事はあるまいな。
さておき
1/3 = 0.333...
∴
(1/3) * 3 = 0.333... *3
∴
1 = 0.999...
ってやらなかった?
安易に他人を馬鹿とか貶すもんじゃないよ。お前みたいに恥をかくから。
(両辺が等しくならない公理系には興味がある…けど初等教育ではこれで十分だよね。
(追記:直観的にはこれでいい気がする…けど http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1014171935 のベストアンサーも参照のこと。なんか違う気がしたんだ…orz
http://anond.hatelabo.jp/20080104210824
元増田です。ブクマの方に熱烈なご意見を頂いたので、つらつらと何か書いてみたいと思います。
2008年01月07日nagaichi不可知論いってるなあ…。デカルトでも読んで解毒したら?例えば大河ドラマを見ながら、武田信玄が実在したかどうか私は確認できませんとか、この人は言うんだろうか?俺も10代の頃はそういうこと考えたけどね。
2008年01月06日me-can-say-jinでは、あらゆる候補者をあなたは見たことがないから投票しなければいい。金融もサービスもネットも直接みえないのだから嘘かもしれない。ふ〜んて閉じこもって社会の外側の目に見える物だけで生きればよいです。
2008年01月06日zu2
2008年01月06日cubed-l自分自身の専門分野以外なんでも同じ。それでも楽に判断を下せるものはあるんだが
2008年01月06日good2nd「客観的資料とやらから妥当な結論を導き出す専門的能力がない」ので、アポロが月に行ったことも、水が言葉に反応しないことも、なにもわかりません><
2008年01月06日buyobuyoあたまがわるいそんなことは物理でも化学でも地学でも程度の違いで似たような構造があることになぜ気がつかない。何で歴史だけそういう風にしたいの?そこにお前の悪しき願望があるんじゃね?
2008年01月05日hagakurekakugo歴史修正主義微妙
2008年01月05日BigHopeClasic
結局、南京事件についても、どこか不可知論的に頭に放り込んどくしかないと思うのです。私も純粋に真実を知りたい一人なのですが、仕方ありません。
我々は原則的に<<生活世界>>の中で生きていて、その世界の中で「妄想」や「物語」を頂いて生きている、というのは周知のモデルだと思います。マトリックスの世界ですね。本当は目の前にある存在すら100%そこに存在すると確認することは出来ません。ただそこにそれが存在すると頭の中で妄想して生きている。化学の世界においても、原子や分子、そのまた原子核や中性子や陽子を実際見たことのある方は一人もいらっしゃらないと思いますが、あると妄想することを前提にその先の議論を進めているんですよね。物理の世界でもニュートン力学・相対性理論・量子論的に世界が出来ているという妄想が前提です。もっと言えば科学の前提にある数学、とりわけユークリッド幾何学上の公理からして幾分か妄想の域を出ないということもご存知であると思います。
ですが、ほぼ全てのことが妄想・物語であるから私は何も信じない!と宣言するつもりはなくて、社会の総意として「確からしい」とされている妄想・物語の大部分は私も受入れているつもりです。上に挙げた科学の諸理論であるとか、武田信玄がいたこととか、官僚機構や金融システムの存在であるとか。
ただ南京事件は決してそれらと同程度に、社会共有の妄想・物語とされているとは思えません。議論が過熱しているのがその何よりの証拠でしょうし、一般人にとっても「あった?」「なかった?」のどちらか分からないという程度が現状なのではないでしょうか。それは否定論者の宣伝が功を奏したのか、肯定論者の宣伝が足りないのか、その辺はよく分かりません。そして一般人としては、自力でどちらかの立場に到達するには、元記事にも挙げた1、歴史学的能力の点、2、資料収集の地理的・法制的制約等の点、で難しい。
ですからまあ、とぼける以外にないのです。
否定論者の方にとってはこういう態度は好ましくないのかもしれませんが、私のような一般人がとぼける必要もないくらいこの論点を「確からしい」ものとして物語化してほしいと思います。私もそれを受け入れられるよう体制をつくっておきますから、それまでは判断を留保しておくことをお許しください。
あんまり有意義なことかけなかったですね。でも書いたから上げておきます。