はてなキーワード: 公理とは
まじめに話し合おうとしているのか、中2病の大学生が二日酔を慰めようとしているのかによって対応は違うから。なんにせよ、元増田がゲーデルを知らないことはよく分かった。以下読み物。
数学の歴史は長いが、ユークリッドやピタゴラス以降、恐ろしく長い空白があった。その後、ニュートン、ライプニッツあたりから突如急角度の上昇が始まる。この後、オイラー、ガウスといった大天才がヨーロッパに続けざまに現れて17世紀から19世紀くらいまでは数学の黄金期と言って良い。こんな急激な進歩があったのは、数学、物理学、工学がかみ合って足並みをそろえて進歩を始めたことに原因がある。当初、数学は本当に純粋学問だったが、微分積分が物体の運動を予言できることからにわかに風向きが変わり始めた。
「反証可能性」「未知の事象の予測」「知られている事象との一致」といった厳しい原則に基づく科学的アプローチは天動説に反する観測的事実が蓄積し始めたことに端を発するといってよい。太陽を中心とする円形軌道に地球を諸惑星を置いたコペルニクスのモデルは、当時の精密化した天動説と大差ない誤差を持っていたが、太陽を焦点とする楕円軌道を提唱したケプラーは、きわめて精密に観測結果に一致した。
その後、ニュートンが現れ、ケプラーの法則を万有引力の法則と微積分で説明することに成功した。
このように近代数学と近代科学は足並みをそろえて歩き始めたのだが、この二つには大きな差がある。自然科学(いわゆる科学)は自然の事物を理解するための仮説の集合であるのに対して、数学とは最初に提示された公理とその操作方法に基づく演繹された知識の体系であるということ。つまり、数学は自然に根ざしていない。これは強調してもしすぎることはない点で、しばしば数学者はこの数学の自立性を以って自然科学を見下すことがある。
数学は公理とその操作からなる演繹的な体系と書いたが、もちろんはじめはそうではなかった。最初はものの数を数えるところから始まり、距離を測り、面積を測り、重さを量り、時間を計るためのツールだった。つまり自然に根ざしていた。が、19世紀後半に精密化が進んだ後、いったん数学は崩壊の危機に面した。それを救うために公理系を整理し、再出発して網羅的に数学の完全性、無矛盾性を証明しようとする動きがあらわれた。だが、最後にはゲーデルが現れ、完全且つ無矛盾な公理系はないと証明して、公理主義者たちをがっかりさせた。
数学は出発点こそ自然科学に密着していたが、今では(失敗したものの)公理に基づく独立した体系と考えて良い。そうしたところで、数学の出す答えが変わるわけではない。が、じっくりと考えたときに、自然現象がこうもうまく数学に従うという点については少し気味の悪さを感じざるを得ない。たとえば、速度を積分すると距離を算出できるというのは、科学的な仮説である。この仮説は徹底的に検証されているので安心して利用できる。だが、速度ときょりという自然現象がなぜ数学的概念である微分積分にこうも厳密に従うのか。突き詰めて考えると、それは時空間の線形性、時普遍性に支えられているが、それ自身がなぜそうなのか、誰にも分からない。
微分積分というのは公理から出発して導き出された数学の体系のひとつである。それ自身は自然科学的アプローチで反証する必要ない。なぜなら、数学の証明は自然科学の実験による「証明」とはまったく異質の厳密な証明だからだ。一方、自然科学の実験による「証明」は確からしさを積み上げることでしかない。
そうだね.
私は,支持する前提条件や立場の違いみたいなのを知ることができることや,自分の思考の漏れというものが指摘されることで,自分の思考を今まで考えていたレベルで停止しなくて済むこと,そこらへんが楽しくて議論してるよ.
すみません勉強します。
「公理」として挙げた要請は考えてみたらただの「社会主義」ですね(脱税が増えるのは構わないなら全然話が変わってくると思う)
ほとんどの場合、結局お互いそれなりに筋は通ってるパターンが多数だと思う。
結局、論理の組み立てが間違ってるとかじゃなくて、前提にしてる事柄が違ってるパターンがほとんどじゃないかね。根底の、論理の出発点となる基本的な公理みたいなところが既に違ってるから、そこの差異を確かめないまま議論突入しちゃうから、相手の論理がおかしいとお互いに感じてしまっている。あと議論中、同じ言葉を使っているようで、その実その意味するところが微妙に違うことがある。キーワードとなる議論の言葉は、しっかりお互い確認しあって定義しておかないとそれも議論がズレる原因になる。増田とか見てても、90%の食い違いはこの辺りな気がする。挙げ足取りはさておき。
世の中お互い様のところがあるのだから、どうやっても抜けられない差別とかで社会を分断しない限り、「ひたすら永遠無限に搾り取られるだけ」の側と「ひたすら永遠無限に搾り取るだけ」の側になるはずがない。
勝った会社は敵のいない市場ではそれ以上大きくなれず、そのうちいろんなところが経年劣化するし、ノウハウというのはいずれは世の中全体に広まってゆく。金持ちも賢いばかりではなくて、無駄遣いもする。
問題は、それを待っている我々には1年2年、ひょっとすると1ヶ月2ヶ月が死活問題だってことだ。
(追記)だれか「経済的原因による自殺、住居の喪失、脱税は社会的損失でありこれらを減少させることは経済の産出増に優先する」という公理(でいいと思う)と両立する労働市場の一般均衡理論を作ってくださいよ。そしたら不毛な言い合いを終わりにできるかもしれない。それとも「ゲームのルール」が明確になるだけで、ますます激化するだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20070914115256
えーと、まとめるとこんな感じ?
増田においては以下のような状況が多く観察できる
公理から引き出される結論が自明である
意見の対立が起こるのは議論の前提であるところの公理の不一致が原因である
論理性を過度に重視することで、争点がずれる・遠ざかる虞がある
だから論理を重視しすぎない方がいい
さもないと実のある意見の交換にならない
だとすると、いいたいことはわかる。
確かに言葉尻を捉えた揚げ足取り合戦みたいに話がどんどんずれてくことは、増田でよく見るもんね。
枝葉末節にこだわらず本質を捉えた議論をしよう、というなら激しく同意。
でもだからといって
って命題は否定できないと思うんだけど、どうですかね?
そしたら、
というTBをもらった。
どうやら、無知は恥ずかしい、というタイトルにした方が良かったのかもしれない。
サブタイトルが暗に示すように、対話では論理的である必要は必ずしも無い。
その理由を示す。
しかしながら
だから、論理だけを使って何かを証明することができなくもない。
だけどもだっけどー、通常の対話では完全な証明を与える必用は無く
「説得」という形をとるのだ。
じゃあ、説得とはなんなのか?
人間は外部から情報を与えない場合には、「演繹」という論理ステップしか実行できない。
一方で外部から情報を与えると、「帰納」という論理ステップを実行することができるようになる。
ただし、この「帰納」というのは統計的な正しさしか保証しない。
しかしながら、人間が定理だと信じていることは、全て統計的な正しさしか持っていない。
これによって、件の命題の真が統計的に保証されれば、説得が終了したことになる。
つまり、本来は論理的である必要など無く、
外部からの情報を入れれば、あとは各自で演繹してくれればいいのだ。
もちろん、数学のようにピンポイントな仮定と、トリッキーかつ複雑な論理が必用な場合は別である。
だけれど、そんな複雑な論理構造が通常発生することはまずない。
説得が成功するかどうかは、各自の持つ公理系と、各自の持つ論理能力に依存する。
後者は、馬鹿を相手にする気がないので、私にはどうにもできないが、
前者に対してはわかりやすい説明をすることで、
説得力を増すことができる。
従って、これからはこの目的で、説明文を書くのでよろしく。
だけど、これから用事があるので
続きが読みたかったら、TBくださいね。
と言うのも、明らかに石原慎太郎はネットを「有害なもの」と看做しているから。
携帯電話とかパソコンといった現代文明の所産は通話による情報交換の便宜の末に、情報の氾濫(はんらん)をもたらしたといえる。その結果多くの人間たちは大脳生理学の公理になぞらえていえば、実がなりすぎて上部の大脳が肥大しすぎ肝心の幹である脳幹の発育が追いつかず、嵐が来たら上の重みに耐えきれず簡単に折れてしまうリンゴの木のように、過剰な情報を収(しま)いきれずに人間としての本質を失いつつあるような気がしてならない。
子供たちの所持している携帯電話には規制の無いまま、売春や変質者の嗜好(しこう)に応えて容易に多額の金を手にする手引きまでが盛り込まれている。それらの情報は風俗の紊乱(びんらん)にとどまらず、若い世代の人間たちの人間としての本質を狂わせてしまいかねない。こうした状況は性愛に関していえば「体は手に入るけれど、心が手に入らない」といった根源的な喪失を生み出してしまう。今時の若い女の子たちが「腐女子」などと呼ばれるような兆候は、喪失以外の何ものでもありはしない。これは若い人間たちだけではなしに、総じて情報の氾濫に巻き込まれている人間たちを本質的に衰弱させてしまう。
ネットで都知事選について言及しているブログや掲示板などを読んでみると、候補者の国家観や教育観などについては盛んに言及されているにもかかわらず、今現在自分達がそれを語っている場であるインターネットについて、候補者がどんなスタンスを取っているのか言及しているものはほとんど無いことに驚かされる。
インターネットというのは、現在、国民が自由にものを言えるツールとして非常に有用かつ重要なものになっているわけだが、その一方で、何か事件があるたびに槍玉に挙げられてしまう存在でもあり、いつ規制が入ってもおかしくない状況にあるということを、先ず皆が認識しておかなければならない。
そして、そういう状況が存在する以上、ネットユーザーとしては、自分達の表現の場を守るために、選挙時においても、候補者がネットについてどんな考えを持っているのか知っておくべきであって、そこを争点として意識できないことは非常に危険なことだと考える。
そういった観点から見てみると、「大脳生理学の公理」などという「トンデモ」としか言いようのない理屈をネットを有害視する理由に置いている石原慎太郎には、ネットについての冷静な考察は期待できないし、彼が元々規制についてあまり抵抗のない保守的な人物であるということも考え合わせると、何かのきっかけに規制の動きが持ち上がったらそのまま歯止め無しにネットの自由を脅かす存在となってしまう可能性の高い人物であると考えるべきだろうと思う。
ネットの自由を楽しみ、また、その自由の中に新たな言論の可能性を見出している私には、ただでさえいつ規制が入ってもおかしくない状況にある今の時代に、そのような人物を支持することはとてもできない。
従来の選挙における争点を越え、有権者もインターネット社会への影響といった視点を踏まえ政治家選びをしなければならない時代になっているのだということをよく理解しておきたいと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20070321102442
僕があいつらと同じように特定の宗教に入信するときがあるとするなら、
それはその宗教の教えの中に矛盾のない公理・定義を見出したときだろう。
そこからきっと僕は定理を考えるだろう。
その昔、スピノザって人が
合理的な体系・公理系として宗教を構築する試みをやってたらしいけどね。
成功したのかどうかはよく知らん。
特定の宗教を信じているあいつらにとって、彼(あいつらが絶対しているもの。神でもしょーこーでもなんでもいい)が絶対なんだろう。
僕も信じているものはある。絶対かどうかは自信がないけれど、でも今までの経験から行くと信じるに値する。
このような自分が信じている公理や定義から導き出される定理も信じている。
でもあいつらにとっての公理・定義は彼が言ったことなんだ。
もし僕がそんな奇跡おこりっこないよと言っても、あいつらは公理・定義は正しいからきっとその奇跡は起こるって言い張るだろうし、
僕がそんな奇跡起こってないよと言っても、あいつらの目にはその奇跡が起こっているように見えているに違いない。
だって、世界を構成するのは彼が発する言葉が元なのだから。
そもそも、あいつらにとてそれは奇跡ですらないはずだ。
僕があいつらと同じように特定の宗教に入信するときがあるとするなら、
それはその宗教の教えの中に矛盾のない公理・定義を見出したときだろう。
そこからきっと僕は定理を考えるだろう。
そして、きっと僕はその宗教の原理主義者になるだろう。きっと。
ほんとうにすごいと思うのは、世の中の宗教のほとんどは少なからず矛盾がすでに発露しているのに
それを見過ごしてそのままその宗教を信じている人が多いということだ。
僕には耐えられない。
だけど、だから僕は特定の宗教の教徒にはならない。なれない。
色々考えたけど、ちょっと難しいな。
cf: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%BD%E9%A1%8C%E8%AB%96%E7%90%86
公理1:φ → (χ → φ)
公理3:(not ψ → not φ)→(φ → ψ)
この2つの公理に、ついでに
定理1:φ → not not φ
を加えて、S 及び not S の両方が真であると仮定して推論を行うと、
1: S → not not S // 定理1に φ = S
2: not not S // 式1と仮定 S から
3: not not S → (not X → not not S) // 公理1に φ = not not S、χ = not X
4: not X → not not S // 式2と式3から
5: (not X → not not S)→(not S → X) // 公理3に φ = not S、ψ = X
6: not S → X // 式4と式5から
7: X // 式6と仮定 not S から
んで結局、S 及び not S の両方が真であるならば、X が導き出せる。
後は X に 『砂糖は塩である』 を代入してあげればいいはず。というより、X にはどんな命題も代入することが出来るんですな。
ということで、S と not S が両立する仮定の下では、どんな命題も証明することが出来ます。
[これはululun]を書いた者ですが(騙りの可能性も考慮せよ)。
いろいろな反応があって面白い。考えをまとめるためにまとめる。あとid:pal-9999が補足記事書いてるようだ。
生物学的には、ヘテロであるid:pal-9999=セフレ関係持った人>>>>>>>>>>>>>>>>ゲイ・レズ=人食い人種
その公理だとレイプ魔最強。あるいは、いい歳した童貞処女は生きる価値のないクズ生物。
そもそも生物学的な優劣は問題にしてないので取り上げる意味もないのだが、思考の対象を明確にするためにもピックアップした。Googleでわざわざ「-送料」とか付けるようなものだろうか。
「それなんてエロゲ?」
自分の部屋に女性があがってきて友達だよね信じてるとか言われて泊まっていくというのは
なるほど。無理に挑発して悪かったと思ってます。ごめんなさい。気にしないでもらえると嬉しい。
O-Lab +Ossan Laboratory+ - はてな匿名ダイアリーで他人をdisるのは正直どうなんかね。
卑怯さ加減が正直どうなんだろうと。
それを卑怯というなら、ウェブ上に限らず芸名や実名で活動してる個人や、名前のついた団体相手に、実名出さずにネット上で批判するのも卑怯という論法になる。オフラインの個人いわく「(ネット上の)あいつらは、使い捨て可能な名前があるだけで、顔も名前も経歴も曝してる我々と互角のつもりで居やがる」。
匿名論争に関してはこういう考えなので、はてなIDでしかidentifiedされてない人間が、はてなIDすら出さない人間を卑怯だというのは目くそ鼻くそかと。
はてな使ってるってことは、
はてダも使えるんだろうと思うんだがねぇ。
それくらいは好きにさせてくれ。あと言及するときはトラックバックしてくれるといいと思うんだがねぇ。
2007年01月18日 cubed-l セキュリティ 危機管理としてはid:pal-9999の方がまとも/色恋沙汰の面倒さも含めれば1対1は避ける方が楽と思う
ああ、1対1に思考が縛られすぎてた。なるほど。「危機管理としてはid:pal-9999の方がまとも」というのも同意だが、主に機会損失のほうを考えてるので。
2007年01月18日 betelgeuse 危機管理, 男と女 「私の知人であり友人であるその男は、私を絶対に押し倒さず、無力な状態でも性的なイタズラ行動はしない」と断言できるのなら、それはそれでいいんじゃないの。そう断言できる材料がどこにあるのかは知らない。
なんで1と0で考えるのかわからない。相手、状況、関係、気分などによっていくらでも判断は変わる。どっちかひとつ選んだら恒久的にそれしか選ばせないのはなぜ?
2007年01月18日 Lhankor_Mhy 恋愛, 考え中 なんつーか、揚げ足取りに見える。言葉の端を捉えすぎてるのか?まあ、id:pal-9999が高く足を挙げすぎたのかもしれんが。
揚げ足取りに見えるのは、小刻みに引用し小刻みに反論してるからじゃないかな。あと茶化してるところとか。どう見えるかは知らないけど、それなりの主張はしたつもりですよ。
2007年01月18日 Masao_hate 男と女 何コレ?あなたのユートピア的妄想を押し付けないでくれる?あなたの性別はなにか知らんけど(文体から想像するに女性だけど)、これは酷い男性差別ですね。
その発言をid:pal-9999へリダイレクトしたい。
というかid:pal-9999へならまだしも、当該記事が男性差別といわれる意味がわからない。「男性を誤解してる」ならまだわかるんだけどそうでもないし。
2007年01月18日 Marco11 うるるんとは別種だろ。チンコ頭はガキなだけだろ。ガキなだけじゃなかったら友達と一緒に潰しに行くよ。ガキなだけだろ?
[これはひどい]がもっともよく似合うものなんだろう、と考えたときid:ululunが浮かんだだけで他意はないです。
2007年01月18日 isnotit あ??あ!palさんあんなエントリー書くからバカフェミとゲイにたかられる(はてな的)仕事以外でゲイと二人っきりは勘弁。自意識過剰でなくてマナー。レイプするゲイもいるだろうしな(こう書くとまたバカが騒ぐかなw
あまりにも中身のない独り言なのでどうしようか迷ったけど挙げておく。自意識過剰でなくてマナーで。
えー、バカフェミとわざわざ接頭辞バカを付けてるとこ見ると、まともに話ができない人なのは一目瞭然なので要点だけ抽出するとたぶんこう。「id:pal-9999さんの発言はそれほど異端でもないが馬鹿を寄せ付ける何らかの魅力は具えている」あるいは「id:pal-9999さんの発言に反駁する輩はバカフェミかゲイだろう。そうでない普通の人なら自然と納得する。誰だって納得する。俺もそうする」といったところか。目の前に具体的な事象があってもわざわざその大枠を考えないと何も言えない人なんだろうか。安全側の人というか。
これを読み解くには暗黙の文脈が必要だと思ったのでid:isnotitの過去のブックマーク見たら、どうやらレッテル遊びが好きなだけの人畜無害な妖精さんっぽい。ネット右翼でもid:dasmでもなんでもいいけど。なんだ。
さて、冒頭にも書いたid:pal-9999の補足記事について。
立件される強姦では、通り魔的な犯罪(引用者注:被害者の知人ではない男性による犯罪)が多いのだが、それでも、日本全体では、年に1400件程度起こっているにすぎない。
これは法的に強姦と認められた件数。ただ、何年度のデータかはわからない。それほど古いデータではないだろうと思う。
福島氏は、山岡一信氏の「犯罪行動形態IV-性犯罪」(1965.1966)のデータから、性犯罪の被害者の三分の二が未成年者である事と小西調査のデータ、性被害者の年齢分布を考え合わせて、日本の女性が生涯で強姦の被害にあう確率を2.5%と算出している。
40年前は「性犯罪の被害者の三分の二が未成年者」だったのかもしれないが、じゃあ今はどうなんだろうと疑問に思った。40年前なら、田舎だとまだ夜這いも残ってただろうし(要確認)。
山岡一信のデータと小西調査のデータがよく相関してるので、そこから現代の値を推測しているようだが、詳細不明なので2.5%の妥当性は判断できない。
こうした数値から考えた場合、デートレイプを含めた場合には、日本で、強姦被害にあっている女性は、年に2万人程度となるわけである。
犯罪白書では、年に2000件しか強姦が起こってないとするが、レイプの定義を広げた場合に(デートレイプなどに含まれる「女性との合意のない不快なセックス」という所まで、強姦の定義を広げた場合に)は、年に2万件の強姦が起こっているになるため、日本の女性は、実際に考えられているほどには安全ではないのである。
なんで2万人なんて数字が出てきたのかわからない。
「強姦未遂」に関しては、おそらく年20万件程度発生しているのではないかという現状を考えれば
だんだん数字の信憑性が低くなってきた。まあ、数値は枕なのでこれくらいで。
僕以外の日本男性の名誉のために言っておくと、昨今の日本男性というのは、ものすごくおとなしくて、非攻撃的なのが現状だ。
犯罪発生率、強姦件数ともに、諸外国に比べて、極めて低く、女性にとっては、日本男性というのは非常に、安全だといえる部類である。
ただし、それでも、上記の小西調査の調査結果は、女性が未だに性被害の危険性に、かなりの割合でさらされていることを意味している。生涯でレイプされる確率2.5%という数値は、かなり危険な数値と言わざるをえない。
2.5%かどうかはともかく、絶対安全とは言えないのは同意。
これらのデータと合わせて、自分の経験かも言わせてもらうが、女性が見知らぬ人にレイプされたという事は、自分の周りではほとんどない。
ただ、いわゆる「デートレイプ」であったり、「親しい友人だと思って安心して家にあげたらヤられちゃいました/ヤられそうになった」なんて話は、それなりに聞く。珍しい話というわけではない。
この、感覚というか、周囲から聞こえる話もだいたい同じ。
高校生のとき「このまえ好きでもない男とやったよ。すげえ気持ち悪かった」とか「自動車教習所でナンパ?されて、最初はごはんだけって言ってたのに、ドライブして夜景見に行こうって言われて、危うくレイプされかけた」とかも聞いた。
それでも、
男性に友情を求める女性にとっては、日本男性というのは、諸外国の男性に比べれば、ずっと、やりやすいとは、言えるだろう。
ただ、現状、まだ、性被害の件数を考えれば、まだ、そういうのは早いと僕は考えているのである。
とは思わない。無条件にそうするのは、たしかに危険だ。それでも、本人が承知した上で、そういう行動を取るのは勝手にすればいいだろう。
「あの人はたしかに男だけど、あの人だけは例外だから」なんて無垢なあるいは考えなしの考えを述べるなら、先述の本でも見せて、正しい知識を与えればいい。同様の理由で、「男は絶対危険だ!」なんて説くのなら、やっぱり、絶対と言い切ってしまうには抵抗があるので、否定したくなる。
「私はあの人を友達だと思ってる」なんて言うなら、そして、にも拘わらず相手からコクられたりレイプされかけたりしたんなら、友達だと思ってたのはその子だけだった、という話に過ぎない。小学校では友達だったのに、中学に上がったとたん僕をいじめ始めた、なんていう話と構造的には大差ないように思う。小学校での友達なんて信用するな、と小学生に対して言えるだろうか。人間関係なんだから、常にある程度のリスクは負わなきゃならないと思う。あとは許容できるのはどれくらいか、という閾値の話だろうか。
最後に。
そのリスクとベネフィットの計算は、たぶん、誰もが自分基準で考えるんだと思う。性欲強い人は「女相手に友情なんて無理」と考えるだろうし、バイセクシャルなら「性欲があろうがなかろうが友情は可能だよ」と考えるだろう(そうでも考えないと原理的に友達できないんじゃないだろうか)。女は男に比べて異性に欲情することが少ないので「男女の友情もあるだろう」と漠然と考え、男性恐怖の気がある女は「男には近寄りたくもない」と考える。
対象を男に限っても、「自分の性欲をコントロールできない」とまで考えてる人も居れば、きちんと抑制できると思う人も居て、そもそも女に性的興味を持たないゲイも居る。じゃあ、男女間の友情というのも、マッチング次第で充分発生しうるんじゃないだろうか。
残された問題は、女から見て、その男は、男女(というか自分と相手)間の友情を成立させうるのかどうか、どれくらい危険か、それらをどうやって判断するかか。これは暇なときにでも考えよう。
これが今回の自分なりの結論。自分はまったくそう思っていないのに、性欲強い人が声高に「男女の友情なんて無理」なんて言うもんだから反発したのかなと自己分析。ということはつまり「男女の友情なんて不可能」派の人は、基本的になんと言われようとid:pal-9999のほうを信用してしまうんだろう。
男女はともかく、私とid:pal-9999とのあいだに友情は成立しうるんだろうか。