はてなキーワード: 仏像とは
宮崎正弘『トンデモ中国、真実は路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)
ウィグル自治区で殆どのモスク(イスラム寺院)は静謐そのもの、宗教活動は地下へ潜ったと見られる。
新彊ウィグル自治区は地理的にみると中国の西北に位置し、その面積は百六十四万六千八百キロメートル。じつに中国総面積の六分の一を占める。日本の総面積の四倍以上だ。
大半が砂漠である。だから中国は平気で核実験場としてきた。そのうえ新彊ウィグル自治区とカザフスタン、キルギス、アフガニスタン、パキスタンなどとの国境線だけでも五千七百キロに達する。
国境警備にも力点をおくわけだから長大な防衛戦において兵站の確保は並大抵ではなく、どこからでも駱駝は進入できる。ビンラディン一派に通じるイスラム原理主義過激派のゲリラが武器を中国国内に運びこむのもさぞ容易なことだろう。
極めて厳しい自然環境、乾燥した気候である。とても住み良い、暮らしやすいという環境ではない。砂漠では水の確保も簡単ではない。広大であっても貧しいこの地域におよそ千六百六十万人が住んでいる。そのうちウィグル族が約九百五十万人、言うまでもなく大半はイスラム教徒で、古くからマホメットを信仰している。
中世から近世にかけて現在の中国北西部を収めていた元は原住民のイスラムの信仰には介入しなかった。近代になっていまのカザフスタンから新彊ウィグルにかけて「東トルキスタン」が建国されると、復古を主張する地下運動が盛んになり、血の弾圧に屈しないばかりか、ますます闘志をかき立てて原住民は漢族に立ち向かうようになった。
新彊ウィグル自治区の党書記・王楽泉(山東人)はすでに十年以上(駐 執筆時点。いま現在は17年)に亘って、この地域の党書記として君臨している。
あたかも欽差大臣のごとく居丈高に振る舞っているが、九八年九月二日の記者会見で!)宗教の管理をさらに強める!)共産党員はイスラム寺院に行ってはならない!)女性が顔を隠すのを禁止する!)ウィグル青年が長期不在となれば「過激分子」とみなし「宗教の自由」を剥奪する、などと時代錯誤の対策を語った。
ウルムチへ入った。ウルムチ市内には西安やチチハルの清真寺のように迷路の奥の路地裏の、さらに裏にこじんまりと立つ小規模なモスクもあれば、福建省泉州のように街の真ん中に公園化した瀟洒なモスク(漢字で「清真寺」を一般的に充てるが、泉州だけは「清浄寺」という)もある。道路沿いに多くの信者が住んでいるが、各地で表向きの信仰生活がみられない。公安の警戒を懼れ、モスクに信者がちかつかないのだ。
冷戦終了直後に旧ソ連領のカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンを歩いた経験があるが、随所で早朝から大きなスピーカーで「アッラー、アクバール」とコーランが流れているのを聴いた。
ホテルでこの聖なる音に目覚め、やおら窓を開けると、♪アラーは偉大なり♪
イスラム圏のまっただ中にいるという旅情がわき上がってきた。バグダットでもイスタンブールでも、エルサレムのアラブ街でもサマルカンドやタシュケントでも同じ情景があり、必ずそこに宗教音楽が付帯した。
しかし中国は違っていた。宗教音楽はおろか公然とした祈りさえないではないか。
一方でアルカィーダ秘密基地に「東トルキスタン独立」を掲げたイスラム原理主義過激派が訓練を受けていた。
寧夏回族自治省のみならず新彊ウィグル自治区のトルコ系住民のなかにイスラム原理主義が拡大している事態の到来は、五輪をひかえた北京中央にとっては鮮明なる脅威という認識である。
北京は「9・11事件」の事後処理に便乗し、ウィグル独立運動を「テロリスト」とそそくさと規定した。そのうえで米国に圧力をかけ、容赦ない弾圧を新彊ウィグル自治区で強化した。911テロ以降も一万人もの「テロリスト容疑者」を拘束、一部を拷問にかけた。
イスラムの動きに鈍感で敵対心を潜在意識に潜ませる欧米諸国は、ウィグルに関してはチベットに寄せる同情心と較べるとやや薄い。まして米国は02年八月にアーミテージ国務副長官を訪中させた際に「ウィグル独立運動」を中国が要求するまま「テロリスト」に認定し直した。イラク包囲網を実行し国連で武力容認決議を急ぐあまり米国は拙速にも北京と妥協したのだ。
(中略)
村全体がウィグル人だったりする農村では、当たり前のようにモスクに集う人々の姿がある。また西安のような大都会でも、中心部のイスラム寺院「清真寺」には人々の礼拝が絶えない。モスク近くでコーランのテープやCDを買おうと尋ねてみるが、一枚もない。一軒だけコーランの経文を売る店がトルファンにあったが。。。
あまりの弾圧ぶりに、宗教活動は地下に潜ったのだ。年齢によって差はあるが、人々の服装を見ても若者の一部はイスラム帽もかぶらず、ピアス、茶髪、ショート・パンツが珍しくない。ウルムチにさえディスコやカラオケがあって暴走族がいる。カザフ・カラーという独特の模様の民族衣装はかろうじて残るが、TVと新聞を北京に握られている以上、イスラムの主張は宥和的、微温的にならざるを得ないようだ。
ウィグル族の首都であるにもかかわらず、ウルムチには圧倒的に漢族が多い。動物園にはパンダ、市民の公園、遊園地も漢族の家族連れが目立った。いまやウルムチは「ウィグルのチャイナタウン」ではないか。
街の看板は漢字とアラビア文字が併記されている。ところが目立つのはカラオケ、瀟洒なビジネスビル。大通りに溢れるのはトヨタ、日産、ホンダの車である。
服装もあか抜けしたデザインが主流で、ウィグルカラーの民族衣装を着た人は少数派になりつつある。自転車が道に溢れ、商店の物売りたちの活気ある呼び声。バザールの喧騒。中国全土のどの都会にも見られる風景で、設計思想は似通っている。
最近のおびただしい漢族の入植は、この地にも工業化をもたらし、経済的な発展を遂げた。生活が少しでも豊かになれば物質的な欲望が果てもなく拡大するのは致し方のないものであろう。
都会のウィグル人の若者は懸命に北京語を学んでいる。言葉ができないと官として出世は望めず、給料も上がらないからだ。
中国沿岸部の人たちは競って英語か日本語を習得し、外資系企業に勤め、うまくすれば外国人の伴侶を見つけて外国籍をとりたいと考えているようにムスリムのあいだにも漢族と同化し暮らしを豊かにしたいと考える若い世代が増えている。むろん村の古老たちはこうした現象を苦々しく見ている。
~~~~~~~~~(中略)~~~~~~~~~~~~
「交河古城」は岩の大地を上から発掘して造った、世界でも珍しい彫刻都市である。
南北一キロ、東西が三百五十メートルの大地の真ん中を道路が貫いている。寺院、仏塔、住居跡が掘り起こされていて壮観であるが、どんな理由があってこんな苦労をして大地の中に都市を閉じこめようとしたのか。異民族の進入を防ぐための秘密都市だったのだろうか。
交河古城はそうした思惑の通りには行かず、漢族に滅ぼされ、城は徹底的に破壊され、新たに建てられた高昌城にとってかわられた。その高昌城とて後年には唐の大軍隊が侵略してきて滅ぼされた。数千年の間、仏教とイスラムの苛烈な戦いが繰り返された新彊ウィグル各地の仏教遺跡には、一つとして満足な仏画、仏像がない。偶像崇拝を禁ずるイスラム教徒の手によってことごとく破壊されたからである。
嘗てタリバン支配下のアフガニスタンではヘラートに近いバーミャンの石仏をイスラム原理主義過激派らはミサイルで破壊した。「世界遺産」であれ、なんであれ狂信的教徒は他宗派を認めない。それは共産主義も同様である。
南に天山山脈を挟むクチャ、カシュガルともなるとイスラム教は俄然、強い色彩を帯びる。カシュガルのエティカル・モスクは中国のイスラム教徒のメッカだ。ここに巡礼を果たしたイスラム教徒は仲間の尊崇を集めるという。
現代の宗教の一つである共産主義は他の宗教指導者を逮捕し、拷問にかけ、北京に刃向かうと見れば次々と処刑した。モスクを物置にされたイスラム教徒の怨念はなまなかなものではなかろう。
血の弾圧を受けた新彊ウィグルの民は、チベットと同様にイスラム教への信仰をひたすら内面に押し込めた。その分、人々は心の中に蓄積された漢民族に対するルサンチマンを歪んだ形で膨らませだ。歴史的に蓄積されたこの反漢感情のエネルギーに火がつけば予想外の炎となって燃え広がるのは明らかである。
イスラムの歴史と文化は漢民族に蹂躙され、独自の文明は形骸化した。イスラム教は地下に息を潜めている。したがってもしイランのホメイニ師のごとく強靱な精神的指導者が現れたなら、かつてシャーを打倒したイラン革命のように漢族に対する一斉蜂起が起こるだろう。
(拙著『トンデモ中国 真実は路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)からウィグル箇所をダイジェストしました。同書は全33省を寄稿した、おそらく日本で唯一の本です。アマゾン ↓)
名前を隠してならいえそうだ。
とてもじゃないが会社の同期には話せない。
学生時代の友達でも結構抵抗あるな。こんなエントリで申し訳ない。
人間というのはとかく噂好きな生き物で。それは学生のうちからそうなんだろうが、
こと社会に出てみるとさらにひどい。ゴシップは会社員(とくにOLの)大好物である。
私(23歳会社員)はどういうわけか同世代男性にはモテない。(これは色々な意味で)
クセが強すぎるというか、趣味が渋いというか、おっさんくさいためか、なんかまあ本人の自覚できていない理由も含め、人気がない。というかあまり話しかけられない。
年下は気をつかってなのか、おっさんなので話しやすいのかこれまた良く分からないが、結構話す。。。
それでも
ダントツでおっさん世代と話していることがおおい。
(おっさん世代とは失礼なというとこでしょうか、いわゆる40代後半から50代)
しかも、周囲に顰蹙を買うタイプ若しくはかなりの曲者と話があう。
学生時代まではそれでよかった。後輩から頼られ、教授、講師の類には気に入られる。別に疑われるようなビジュアルを備えていないので何も問題ない真面目なサブカル好きの学生という印象を与えるだけ。
しかし、社会に出るとそうはいかない。
「XXさんと仲がいいよね~本当に」
これくらいならまだいい。立ち話をよくしているから仕方ない
それが突然
「YYさんにストーカーされてるの?」
「親父キラーだね(いやいつの時代の表現だよ)」
(下のほうなんか、毎日言われるのだが)
挙句
ある同僚(出世しない所謂窓際なのかよくわからない40代後半の平社員)を中心とした飲み会の幹事を頼まれた際には会社中に広まり、
なぜか会社中の人間がたった6人の飲み会の存在を把握しているという有様。
あいつはおっさんに人気があるからおっさんと頻繁に飲みにいっているということにまで発展しているらしく。実際1回の飲み会(それもサシでもなんでもない)が何回にもわたって行われているような話になっている。。。。
「違います」などと真面目に否定するとかえって逆効果かと思い、へらへらしているが、毎日言われることについてはさすがに面倒になってきた。それに23歳ですからまだ明るい未来が。。。。
それで、あまりおっさん世代と仕事以外の話をしない努力をしているのだが、話しかけられれば仕方ない。
やっぱこれは私が悪いんだろうな、悪気はなくても原因を作っているのは私自身だ。
早く脱しないと将来がないな。
なんで寝る前にこんなことを書いたのか、すいません。おやすみなさい。
最初に言っておくが、私はなんら仏教に関係ないし信者でもない。ましてやキリスト教、イスラム教、新興宗教にも全く興味が無い。ただ仏教の哲学には納得する部分が多いし人生の参考になるので簡単にまとめたいと思う。だから全く興味がない人や食わず嫌いの人に触りだけでもかじって欲しいと思い書きます。
そもそも現代の人は私を含めて宗教と聞くと胡散臭いや洗脳など怪しいイメージが強いから拒否反応が自動的に働くと思います。しかし、そういうイメージがついたのは仏教やキリスト教を適当に模写し都合の良いように作りあげた新興宗教やカルト教団のことを言います。例えばオウム真理教なんか日本代表である!つまり、仏教は胡散臭くも無く怪しくも無いブッタが一生をかけて考え抜いた精神世界の教えです。
ちなみに私は仏教本に関して、自己啓発本の一種としか考えていません。つまり仏教本を読めばモチベーションが向上する。ただそれだけです。しかし、知っているのと知らないとではこれからの人生の生き方や価値観は大違いだと思います。後、仏教と聞いて、お経なり墓参りや、お坊さんやお葬式など思い浮かぶと思うが、面白くないので触れません。私が興味あるのはブッタという哲学者が考えた知識です。
できるだけ専門用語は使わずまとめていきたいと思います。まず仏教といえば仏(ほとけ)様がイメージできますが、決して仏像の仏ではありません。では仏とは何かというと、悟った者のことを示します。
仏=ブッダ
ブッダとは「ブッダ」という名前ではなく悟った人のことを言います。それで「悟る」とはサンスクリット語でブッドゥッといい、その過去分詞がブッダ、つまり悟った人なのですね。とりあえず、ふんふんと頷いといて下さいwでは仏教を始めた人は誰か?ブッダと呼ばれるものは誰か?
「ゴータマ・シッダールタ」 この人がブッダであります。ちなみに仏教はインドから広まったものです。これで分かるように仏は神みたいな絶対的存在ではなく、ただの人間であり、ゴータマ・シッダールタという悟りを極めた哲学者であります。この人の生きた時期は具体的には分かっていません。なぜならその当時のインド人に「いつ」の概念がなかったからなのです。だいたい紀元前5世紀くらいの人と言われていて、生まれた場所はルンビニーという所。裕福な生活をしていて結婚して男児もいて普通の生活をしていました。しかし、29歳のときに家族を捨てて城から離れ修行者として旅立つことに。つまり出家ですね。それから苦行を続け、やがてナイランジャナーの河のほとりで瞑想を開始します。そして、35歳で悟ったと言います。それからたくさんの弟子をかかえて享年80歳という長命で姿を消すことになります。それで亡くなってから、当時の弟子たちがブッダの教えで会議を行い文章として作ったのが「経典」であります。
まず仏教のキーワードは「縁起」”えんぎ”。 是非この言葉だけは覚えて欲しいと思います。
「縁起」とは人や事柄などが関係しあってお互いを支えていることを言います。例えば、ここに40歳の男性がいるとします。彼は妻にとっては夫であり、子から見れば父、彼の親からすれば子である。会社にいけば彼は課長であり、オーナーから見れば従業員である。つまり、自分の存在とは情報によって作り出されたものであり、あなた自身多くの人々の関係、周囲にあるあらゆる物との関係において、今のあなた自身でいることができる。だから、最初からあなた自身が存在しているのではなく名前という情報があり、住所という情報があり、職業などがあってこそ自分がなりたつ。つまり、他人が自分の存在を示してくれる。逆にいうとあなた自身も周りを支えていることになる。こういう関係性を仏教では「縁」と呼びます。
もうひとつ知ってほしいのは<「空」”くう”です。
「空」とはそこに見えてるものは実体がないと考えます。ちょっとややこしいが、普通は実体があるからこそ人やものが存在していると考える。しかし、仏教では現象にすぎないと考えます。簡単にいえば全て幻と考え、起きることや物、人生、人すら実体のない幻と解釈してしまう。バカらしいと思うかもしれないが、ちょっと待ってほしい。例えばテレビ画面やパソコンの画面、映画のスクリーンを近くでよーく見てみると、小さい四角や丸の集合体であることは知ってますよね、知らない人はテレビ画面におデコをつけて見てほしい。すると小さいドットが繋がっている状態でひとつひとつがいろんな色に点滅しているただの光の集合体というのが分かります。つまり実体のない幻といえる。物や人も素粒子レベルで考えると、点滅しているにすぎない、だからあなたも私も幻と考えることができるということなのです。ちょっと分かりずらいが、「空」とはすべてが現象と考えると分かりやすいと思います。
もうひとつ例えを出します。皆様は普段から牛肉を食べますよね。これって食べた後にどうなるか知っていますか?そもそも、食べるものとは”アミノ酸”だとか””コラーゲン”みたいに色々な分子が集合してできているのが食物で、それを体内に入れた時に分子に分裂して体中に分子が散ればめられてたんぱく質に変わり栄養として吸収され破壊されて行くのですが、ここで問題なのが牛肉は牛であり、人間と同等の生物ということです。具体的に言いますと、牛肉は分子の集合体ですよね、ということは、牛も集合体ということになり、故に、人間も分子や原子の集合体ということになるのです。、だから、人間も実体がなく現象であり「空」であるというのが仏教という哲学なのです。
ちょっと分からなくなってきたと思いますが、この2つセットが仏教の基本なので、先入観を少し置いといてこういう考え方もあると思ってくれれば結構です。補足ですが、瞑想と言う言葉を聞いたことありますよね、洞窟の中とか誰もいない森の中で永遠瞑想という修行をする人たちのことですが。なぜ、できるかというと全てが幻と思っているからです。どこにいようとも何をしようといいというわけです。これが究極の空です。
ちょっと話がそれますが、巷では占い師の方が「あなたの前世は武士」だとか、死ねば生まれ変わるだの言われることがありますが、仏教では輪廻転生はないと考えているし来世も前世も存在しない、自我も空だと考えています。つまり、体がなくなっても魂は来世に蘇り繰り返すという概念はありえない(正式には分からない)しかし、一部では霊がいるとか神がいるとか、輪廻するとかいうのが信じられています。まあ信じる分だけならいいのですが、それに付け加えて出てくる概念が、この世で苦しめば苦しむほど来世でランク(ステージ)が上がるという考え方です。インドのカースト制度がこれ、ランク(ステージ)の低い身分の人はこの世で自分を苦しめ相手も苦しめることを現実にします。つまり問題なのは現世で苦しめば来世でランクが上がるという概念が怖いのです。
例えば、電車の中で騒いでいる若者がいたとする、こいつは人に迷惑をかけていてこのままでは来世でランク(ステージ)が下がるのでかわいそうと思い、早い段階で苦しめて殺しちゃえという考え方になり、ナイフで刺してぐりぐり苦しめて殺してしまう。この考え方がオウム真理教の「ポアの思想」。
もうひとつ例えれば、映画館で隣の男性がポップコーンをボリボリ食べていて人に迷惑をかけているとする。すると、前にも言ったがそういう人は現世で苦しめて殺してあげる、そして「来世でランク(ステージ)を上げて楽しく暮らしてね。」って感じで平気で人をナイフでぐりぐりして殺してしまう。刺されている人が「痛いよ!」って言っても刺してる側は全てが「空」だと思っているから、「この世には実体がない幻なんだから痛くないでしょ、何言ってるの」ってなる。これがオウムの「ポアの思想」で宗教を悪いことに利用したスピリチュアルな考え方です。
怖い考え方のキーワードは3つ
現在テレビで人気の○木数子はかわいいもので彼女はただのオカルト。怖いのはスピリチュアルの○原氏。輪廻とランクがありきと考え、しかも視聴率が良い番組で堂々とわけの分からないことを言っているので、このままいくとオウムみたいになりかねないと私は危惧します。
話を戻しますが、人間には煩悩がたくさんあります。代表的なのでは睡眠欲、食欲、性欲、物欲、などなど、これらの煩悩をなくしてしまうのが悟り、つまり全てが空と考える概念を「空観」”くうがん”といいます。その逆が「仮観」”けがん”。仮観は煩悩むき出しでお金も稼ぐだけ稼ぐし、あれも欲しいこれも欲しい、その為には戦争もする考え方。みんなが仮観の考えでは世界は滅びます。逆に「空観」もみんなが考えるとやる気もないし何もしない、食欲もないし睡眠欲もないからこれも世界が滅びます。
じゃあどうするの?
そこで仏教ではその間の「中観」”ちゅうがん”という概念が存在します。では「中観」とは何か。まず全員が「仮観」の考えかたをすると欲望を限度なく追求するから結局戦争になり人類が滅びます。次に全員が「空観」の考え方だと全てが幻と思っているからボケーっとして誰にも迷惑かけないけど何も進歩しないからこれも滅亡する。しかも「空観」にカルマの思想が入ると他人に迷惑をかける最悪のことになります。
それではダメなので昔に「中観」という概念を考えたナーガールジュナという人がいます。「空観」と「仮観」の間の「中観」。さっきの例で言うと、ポップコーンを食べている人はボリボリと人に迷惑をかけているが、その男性は彼女と映画を見にきていて彼女と楽しむことや、彼女を楽しませるなどやること、役割ががあると考えます、つまりその男性は機能をもっていて、デートいう役割を果たしている。すると矛盾が発生して殺してはダメになる訳です。
ちょっと話が脱線しますが、ブッダの弟子がブッダに対して「神はいますか?」「生まれ変わりはありますか?」という質問をした。その時にブッダが「毒矢の例え」で答えたという。「毒矢の例え」とは一人のひとがどこからか飛んできた毒のついた矢が胸に突き刺ささって苦しんでいて、その時にどこから矢が打たれたのか、この毒の成分は何なのか、何メートル先からか、ベクトル計算するとなど考える前に矢を抜けよってこと。つまり、ブッタは「霊」とか「神」とか「自我」とか考える暇があるんだったら他にやることあるだろ、だから「神」がいるとかいないとかどっちでもいいじゃんっていうのが結論。これが「空観」に機能(やる事)(役割)をもたせた考え、つまり「中観」。
私も「どっちでもいいじゃん」ってのが結論で、答えがでないものを考えるより他にやりたい事や、大切なことを楽しむ、そして人生有意義なものにできればと思いました。ただ仏教などの哲学全体を把握しての「どっちでもいいじゃん」と何もせずめんどくさいから開き直って、さも分かっているかのように「どっちでもいいじゃん」とでは雲泥の差があるので勘違いしないで欲しい。是非、皆様も仏教と聞いただけで邪険にするのではなく、知っていると悪徳新興宗教やスピリチュアルなんかで高額なお布施などを払うことも予防できると思います。是非これをきっかけに仏教本でモチベーションを上げてみるのもいいのではないでしょうか。
合言葉は「どっちでもいいじゃん」です。
元増田です。
ご助言、ありがとうございます。
職業柄、絵の中に織り込まれた「社会史」的な事柄を読み込むことはできまして、解説を頼りにですがその絵のコンテクストも、頭では理解できます。けれども、やはりわからないのは「(他の画家とどう(すばらしさが)違うのかという)差異」であり、またその「すばらしさ」そのものでありましょうか。
反対に、自分(と連れ)は、立体系(たとえば建築だったり、仏像だったり)を見るのに、絵画のような特に頭をひねくるようなこともなくはなくても、見てて楽しめます。
絵画の鑑賞眼は、お話を聞きますと後天的に習得できるようなものだそうですが、しかしその審美眼についてはそうではないのではないかと考えてしまいます。
たとえば、絵画以上に書(道)について、自分はほとんど理解不能で、その記号的なもの以上の何かを読み取ることはできません。
長年住んだ部屋を片付けていた、そしたら、見慣れない古ぼけた仏像を部屋の隅から発見した。なにやらやたら古ぼけていて、苔むしている木像だ。こんなもの、入居時にあったか? と思ったら、
「ふは!」
「うわ」
仏像が喋った。気を吐いた。びっくりして仏像を取り落としかけるが、なんとかかっちり掴む事に成功する。
ほっとするのもつかの間、仏像は唐突にこう言った。
「おぬし。もう少し頻繁に部屋を片付けた方がいい。でないと、ここは淀み、物の怪の巣食う温床になってしまうぞ」
「はあ」
「なんだい、その気の抜けた返事は。せっかく忠告をしているというのに」
「いや、もうあさってにはここ出るもんで」
「なにぃ」
仏像はどこからか大層なため息を吐いた。かび臭い匂いが鼻に付く。
「もう出て行くから関係ない、なんていうのかおぬしは。いままでこれだけ汚してきたというのにか。ここに淀みを作り続けてきたというのにか。わしがいなかったら、もう既にここに物の怪が生まれていても不思議ではなかったのだぞ。
それでも出て行くからもう関係ないと、おぬしはいうのか?」
「はあ」
「くあー」
仏像は顔をしかめた、らしい。小さい顔なのでいまいち判別が出来ない。常人には微妙すぎる表情の変化をしながら、仏像は説教を始めた。
「そも、この汚れ具合といったらどうだ。ゴミタメなんてもんじゃない。まるで魔窟だ。どうやったら常人の域でこんな空間が作れるのか理解に苦しむ。あちらをみやればゴミ袋の山、こちらをみやれば再びゴミ袋の山。そちらをみやれば袋に収まりきらなかったゴミの山。どこをみてもゴミゴミゴミゴミ。しかもこの淀みから察するに、ここだけではあるまい? 他の部屋にも、ついでに外にもゴミとゴミ袋が山積しておるだろう。まったく、なんたる事だ」
「はあ。まあ、昼夜逆転の仕事をしてると、ゴミがなかなか出せないもんで」
「それにしてもこれはなかろう。良くこんな所に住めたものだな」
「はあ。まあ、寝る場所も生活空間もほとんどないですけど、なんとか」
「……。それにしても、これだけの量をあと二日でどうにかできるのか?」
「明日が区役所の方が強制的に捨ててくれるらしいです。僕もそのついでに追い出されるわけですけど」
「くあー」
仏像が再び顔をしかめた、らしい。やっぱりわからん。そのわからん顔つきで仏像は再度言った。
「という事は、あれか、追い出されるのか。おぬし」
「はあ。まあ。明日までに全部捨てれれば、居てもいいらしいんですが、まあ無理ですね」
「くあー。情けない。なんとも情けない。情けないったら情けない。自分でもそうは思わんのか、おぬし」
「はあ。まあ」
仏像、みたび「くあー」と顔をしかめる。どうもこれ以上の動きが出来ないようなので最大級の感情表現、らしい。仏様にしては貧弱な感情表現だ。
そんな不謹慎な事を思っていると、仏像は突如「ふむ」と言うや煌煌と光を放ち始めた。感情表現に新たな一頁だ、と思う間もなく、仏像は光を収めた。
「調子は今一つだが、まあやってやれないことはあるまい。おぬし」
「はあ」
「わしが力を貸そう。部屋を片付けるぞ」
「はあ。……はあ?」
「このわしが手を貸そうといっておるのだ。ほれ、わしに祈れ。部屋よ、片付けとな」
「はあ……」
祈って片付くならと、しぶしぶ祈りをささげてみる。こんな感じかな?
かたづけーかたづけー。かたづけーかたづけー。
すると、仏像がまた光を煌煌と放ち始めた。おおー、こうしてみると古ぼけたのがむしろ霊験あらたかに見えるから不思議だ。
かたづけーかたづけー。かたづけーかたづけー。
光が部屋に満ちていく。と、同時にゴミが、ゴミ袋が光に包まれ消えていく。
おお。
祈れば祈るほど、ゴミは、ゴミ袋は消えていった。だから夢中で祈った。
かたづけーかたづけーかたづけーかたづけーかたづけーかたづけーかたづけー。
気が付いたら、ゴミは無くなっていた。
「おお」
声が出た。ついで感謝の念が心に浮かんだ。これで出て行かずに済む。ありがたい、と思った。だから感謝の言葉を口にしようと。
その時に気が付いた。
光が更に強くなっている事に。まぶしいなんてものじゃない。目を閉めていても光に埋め尽くされるような感覚。もう痛い程だ。仏像を取り落とした。ごと、と音がしたが、光は収まらない。慌てて叫ぶ。
「も、もう十分! もう十分だから!」
「十分? なにをいう。まだ一番汚いおぬしが消えておらぬわ。安心せい、意識だけ奪い、体は綺麗なわしが頂くからのう」
「な」
「いうたであろう。ここの淀みが物の怪の温床だと」
ああそうか。と思う間にも光が更に強まり、意識を塗りつぶしていった。
爺あたりが最適な本を紹介してくれるだろうから自分はコレが好きというのを。
正月に初詣に行って、お大師様に厄除けに行って、お彼岸にお墓参りして、お盆に迎えにいって送っていって、また彼岸にお墓参りして、クリスマス祝って(?)。修学旅行は京都へ行っておみくじ引いて仏像眺めて、受験があれば絵馬を書き、死ねば坊さんを読んでお経を読んでもらう。トイレには花子さんがいて、暗い夜道には妖怪がいる気がして、山には神様がおられて、夜はつめを切らない。結婚式は教会で挙げたり、バイトの巫女さんがいたりする。
考えるとおかしいね。そもそも神社とお寺がごっちゃになってる。神仏習合のせいか。
そんな神仏が混じりあった宗教概念の人が多いから、神仏以外の宗教が異界になるのだろうか?
じゃあ、増田やってる君らも、周りから見たらそう思われてるんじゃないの?
増田を“異界”と思う人から見れば、まさしくその通りだと思う。
そうなんだろうな、一種のおたくもそうなんだろうな。
問題は、きのこanond:20070216134301も友達の宗教anond:20070216183717も、「熱心に布教されて困る」ってところなんじゃないのか?あと、「人生かけちゃってる」とこ。坊さんの息子が坊さんになる、みたいなもんだと思えばいいのかなぁ?
何か君も宗教臭いね。
っていうのは、いいえて妙ですな。たしかにそうですな。こっちも一種の宗教みたいなもんだよな(しかもある意味布教もしている)。
エロゲって部分を適当な趣味、泣けるって部分をちょっとマニアックなこだわりに変えてごらん。
どんな趣味にも、一般人にはついてこれない領域ってのがある。別にエロゲみたいな、それ自体が少々後ろめたいモノでなくてもだ。車でもオーディオでも旅行でもダイビングでも鉄道でも。
でも、本当にその趣味を分かってる奴は、そのちょっとマニアックなこだわり部分を、万人全てがそのよさを理解し納得すべきだ、なんて主張をしたりはしない。自分はちょっと茶葉マニアだったりするけど、一時期の茶ブームの時ですら、自分の選択理由の一部を一般人に話したらドン引きされるって自覚はあった。だから万人がそれを理解し受け入れるべきだ、なんてことは言わない。同じく知り合いにリアルで仏マニの女の子がいるが、仏像の素晴らしさはジジ臭いとかそういう域を超えてるとか、宗教色はオマケみたいなモンでとか熱く友達に語ったりはしない。皆それぞれ、分かる奴が分かればいいんだという自覚がある。普通の趣味でもそうだし、サブカル色が強くなれば尚更だ。
ところがエロゲとか、エロゲに限らず一部の秋葉文化は、ネット上にそういう趣味かつ声のでかい奴が多いからか、何故か「自分の趣味は一般的だ」と主張しだす。確かに日本を代表するカルチャーの一つだなんつー妙なスポットの当てられ方をしてるから舞い上がってんのかもしれないけど、その「万人此れを理解すべし」というアクション自体がキモい、叩かれる大元だってことに気づかない。エロゲが如何に素晴らしい存在か(あるいはそうでないか)はこの際あまり関係がないのだ。
> 過剰に反応しているのを外から見ると弄りたくなる
そう、結局はここに尽きる。今までが超々日陰者趣味だった反動なのか、ちょっとメディアに取り上げられると途端に大日向で趣味を堪能したくなってしまったんだろうか。かくいう俺だってエロゲやらん人間でもないが、如何にエロゲで泣いたからって、お前ら理解しろ俺の趣味は高尚なんだ、とかいう気にはまったくならない。いいじゃねえか、分かる奴が分かってれば。むしろ一般人に簡単に理解されちまう方が嫌だよ、俺は。