はてなキーワード: メンタリティとは
このエントリとはてブコメントやら周辺のエントリやらを読んでて思ったのだが
http://anond.hatelabo.jp/20070825012540
http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070824/1187934004
あたりの意見。要するに「浅く広くじゃ高校までしか通用しないよ。大学じゃ狭く深くが大事だから」のようだが……それ自体の主張の良し悪しは置いておくとして、その主張をなぜこのエントリに絡めるのか解せん。
http://anond.hatelabo.jp/20070825092508
このエントリの、
ここで問題なのは、「なんにでも興味を持つことの善し悪し」ではなくて、「興味を持ったジャンルから、
一つ専門を選んで、それを飽きずに続けることができるか」だと思う。
そういう意味で、 http://anond.hatelabo.jp/20070823233243 この増田の友人の善し悪しは判断できない。
にも書いてあるが、「深くやることも大事派」は、さり気無く勝手に元増田の友人を「浅く広くしか学べていない」とした上で批判しているという点が気になる。そういう主旨の話か?これ。どちらかというとこの友人は、「なんでも楽しい」というより「なんでも楽しめる」人間なのだ。専門性を要求されるようになったらなったで、この友人はまた、「それが楽しい」というのではないか?「このことだけに集中するの、すげー楽しいよ」。そう言いだすだけではないのだろうか?俺は、そういう人間だと思うのだが。
その友人を書かれている以上に妙に低く設定して自分が一段上に立ち(そうでないと立てないからだ)、「大学はいったらわかるけどー、深くも大事なんだぜ」なんて風に、大学はいってちょっと専門的な事やり始めて、その点で高校生なんかを見下したくなる――中学生が小学生に「算数じゃなくて数学なんだぜ」と言い張るように――そんなメンタリティが透けて見えるのは、気のせいか?専門性にちょっと手をつけ初めていきがっている大学生、と考えると非常にしっくりくる。結局主張したいのは、「ママーみて。僕ちんこんな難しいことやってんだ」。ま、そんなの妄想だっ!といわれりゃそれまでだがね。
あと、「深く狭くやる事でしか味わえない学べない事」というのは、実は、そんなにない。ある程度の深さまでいくと、あとは「深く狭くやる事でしか味わえない学べない事」というのは、ほぼ同じなのだ。強調しておくが、「深くやることで『しか』学べないことが」であって、深くやったって何も学べない、では勿論ない。一般の大学生だと、今まで自力で触れてこなくて初めて専門的な事に触れるが故に、あまりに今までと今の差が激しいが故に、「深くやるとこんなに違うんだ!」と勘違いしてしまうのかもしれないし、それ自体は責めるべきものではないが。
つーか心配だから忠告しておきたい。
深くやりさえすればそれでいい、と思考停止し、ドツボにはまると、時にとんでもない事になるぞ。専門バカになるくらいならまだマシだ。多くの人間は専門バカにすらなれない。結局、「深くやってきた」と妙なプライドだけが残り、その割りに深くやってこなかった(と本人が思ってる)奴とその専門性で同じ程度だったりと、中途半端で惨めな結果だけが残ったりしやすい。
深くやることも大事ではあるが、大学生が思うほど、何よりも重要なわけじゃない。あと「広く浅く」と「深く狭く」しか選択肢がない時点で視野が狭い。自分で自分の可能性を狭めている。お前らはそんな奴がいたら到底敵わないからと、想像したくないのかもしれないが、真に出来るやつというのは、「深く広い」。(つかそもそもはっきりいって、大学生時の専門性で「深さ」がどうのというのはそれ自体が甘いんだけどね…。そんな程度ではお前らの思っている「浅く広い」とたいして変わりはしないよ)
元のエントリを書いたものですが。
自分は別にどのブロガーを攻撃しようとかいじろうとか、いちいちつっこもうとかそういうかたちにしたくないので、特に誰と特定せずに一般論としてこういう語尾を使うブロガーはこういうメンタリティが背景にないか、と観察をしただけですが、さっき増田をチェックしたら、そのエントリを投稿してから「たったの三分」で、
別にいいんじゃねぇの? 何か突っかかるほどの問題があるようには思えない感じですかね。
こういうの見ると、必死でつっかかってる側も痛いなあとつくづく思う。 他人にとってはどうでもいいことなのに。心底。
と、脊髄反射的に二人も絡んで来られていたのにはたまげた。しかも一人は早速「感じですかね。」とかわざわざ「してやったり顔」で書きこんでるし。
自分は特に誰を批判するがためでなく、一部ブロガーにはこういう傾向があるんじゃないか?という指摘のつもりでしたが、それにものの三分で突っ込んでくるとは、まさかとは思うが、「自分のことを誰か増田でネタにしておちょくるんじゃないか」とか気にしてピリピリして一分間隔くらいでしょっちゅうリロードしている人がいらっしゃる、ということなのかなもしかして。
もし元のエントリでどなたかの逆鱗に触れたのなら、すみません。そんなに必死になられるほどのことではないですよ。どうでもいいことを書くのが増田なんですから、読み飛ばして下さい。
俺は中国人は嫌いだ。よくご飯を食べに行っていた中華料理店で働く中国人の華さんは、物腰も穏やかで知識もすごいし、だからと言ってそれをひけらかしたりもしないし仲良くやっているが不法滞在で強制送還された。
俺は韓国人も嫌いだ。大学で留学生として来日した韓国人の金さんは日本語は不自由だし、歴史問題にスグ熱くなるし、挙句の果てに仲間に誘われて強盗団に入って逮捕されて送還された。
俺はDQNも嫌いだ。一緒に電器店でエアコン取り付けのアルバイトをしていたS君は、銅管が売れると聞いたら仲間と一緒に会社の倉庫に忍び込んで盗みまくって逮捕された。
俺はギャル(死語っぽいけど)みたいな奴も嫌いだ。派遣で会社にいるFさんはいかにもな格好をして、何度注意しても付け爪や派手なメイクを止めない。何度言っても電話を取らないし、長電話も止めない。
一般化した呼び方をしてもしなくても、悪人のメンタリティは変わらない。
それは集団だろうが個人だろうが関係ない。
こういう単語が出てくると、そこのコミュニティは終わりかなと思う。
2ちゃんもそうだったが、こういう言葉を好むのは4歳くらいの子供のメンタリティである。要するに大人にかまってもらいたいのだ。
匿名コミュニティは人間が増えないとサービスとして成り立たないが、人間が増えると議論の質は低層に落ち着く。
議論についていけない人間が、極めて低俗(4歳児でもわかるような)なことしか発言できなくなり、下ネタで反応を得ようとするからだ。
4歳児と親との関係と異なるのは、匿名コミュニティはその関係を自己の意思で直ちに切れることである。
つまらないと思ったら自分から消えることができるのだ。
そしてコミュニティは朽ちてゆく。
決まって「東京は人が多い」「早く沖縄に帰りたい」などという。
現地在住のガイドに出くわす。3回いって2回そうだった。
別段気にも留めてはなかったけど、ふとこれのルーツは、
琉球王国を日本に侵略されたという恨みからきてるものかしらと思ったら
似たような経緯で日本につっかかってきている隣国の方々を連想した。
だから、沖縄の人にくわしく気持ちを語ってもらえると隣国の住人
の気持ちも少し理解できるんじゃないかと思った。
沖縄の人は日本語も通じるし。逆に日本のほうの感情も少しは理解できそうだし。
さしあたってどうして「沖縄が1番」って東京のスタジオで収録し全国にむけての放送で
無邪気に言い放つことができるのか知りたい。
そういう演出なのかもしれないが、それでも気を使うってことはできないのかと思う。
告白ってな、どんなものなんだろう。
全然分からない。
まあ想像できない僕のメンタリティに問題がある気はするんだけどね。
大体、女の子がどうとかよりも男の子同士で遊んでるのが楽しいお年頃ってのがかれこれ十年以上は続いてる気がするから。
しかし、こういうことを考え出したというのは、それも一つの終わりを迎えようとしているのかもしれないな。
大丈夫、そこから十年はくよくよ悩めるから、と涙の告白
最近知り合いが「結婚した」とかいう話を聞くようになって、「そういやそんな歳になったんだな」とか思いつつ。
ふと気付いた。
中高が一貫校で男子校だったということに加えて、大学時代のゼミでも男ばっかりだったというのもあるんだろうけど。
まあ当然キモヲタピザデブ童貞交際歴なしな自分には、およそのところ男女交際というものが未知の物体X以外の何物でも
ないな、と。
というかね。街歩いててカップルを見ることはあるから、男女交際の存在自体は分かるんだけど、およそ「告白」という
現象が全く想像つかない。
例え知り合いの人でも、この人がどういう風に告白したんだろうって、見当もつかない。
自分が誰かに告白している様も全然想像できない。まあこれは多分無理な話だから良いんだけど。
「告白」という現象は多分世界中で行われているのだろうけれど、何だか僕には得体の知れない儀式に思えてきた。
人は、どんな風に告白するんだろう。
告白ってな、どんなものなんだろう。
全然分からない。
まあ想像できない僕のメンタリティに問題がある気はするんだけどね。
大体、女の子がどうとかよりも男の子同士で遊んでるのが楽しいお年頃ってのがかれこれ十年以上は続いてる気がするから。
しかし、こういうことを考え出したというのは、それも一つの終わりを迎えようとしているのかもしれないな。
*育乳物語(仮題)
女の子を理想のおっぱいに育てるために然るべき教育を五年間施していく。
目標のサイズと形を最初に設定しておいて、その数値にピッタリ一致させるべく女の子にさまざまな課題を与える。
運動や食事制限、体調管理やその他各種イベントをこなしていく。
育てる女の子はそれぞれ性格が違い、また目指すサイズ等によっても適切な育乳指導が異なる。
女の子たちの体調やメンタリティが崩れると、やけ食いや摂食不良と言ったトラブルに見舞われる。
フラグをちゃんと立てていれば、おっぱい女王からプレイヤーのお嫁さんまで様々な職業につくEDを迎える。
育成途中で女の子が誘惑してくるイベントが度々あるが、そのとき主人公(プレイヤー)の性欲値が理性値を越えると
女の子と不適切な関係に陥って育乳士の免許を剥奪されてゲームオーバーとなる。
あなたは果たして真の愛をおっぱいに注げるだろうか。
大体こんな感じでゲス。
今ならこの企画を希望される企業に無料でお譲りする所存でゲス。
この語尾ですか?これは俺が下衆だからでゲス。
そうそう。なんか合理的な判断を下してる私ーみたいなのに酔ってんだよな。エセ理系人て。で、そういう事が出来てるかっていうと全然できてないのな。ただあれも嫌これも嫌ということを「敢えて厳しい批判をした」みたいに勘違いしてるような感じの恥ずかしさ。結果的にそうなってるガチ理系人に憧れて、何故かその形から入る愚かなエセ理系人。天才に憧れて、なぜか天才がしている奇行からマネしだすような、愚かな凡人と同じメンタリティ。
http://anond.hatelabo.jp/20070615155735
「できる?」ってきいて相手が出来ないって言おうが、出来るって言おうが、結局君は「できない(かも)な」と思うわけだろ。
頼みごとをしたいときに「できるよ」っていう返事を聞いて、「けど、本当はできないかもしれない」っていう可能性を想定することと、「できない」っていわれて頼まないことは全然違うと思うんだが、違わないの?
「どうしたって人間なんだもん、誰に対してだってどんな時だってちょびっとは疑うよ。完全に信じるとか有り得ないでしょ?ね?有り得ないよね?合理的に(?)。無理だよね。ね」て言いたいんだよな?
うん、言いたいよ。リスクが0なんてありえないと思ってるよ。もしかしてあなたは、「リスクが0だと思わなきゃいけない」、といいたいの?
信じるなんてあやふやな概念に合理的も糞もねえだろ。
概念があやふやなのと、人が概念をあやふやに使うのは別の問題だと思うよ。他の人々が鵺的につかってる概念をすっきり再定義するってのは不可能じゃないと思うけど?
エセ理系人ぽいメンタリティ
いい表現だ。自分でもエセ理系っぽいと思うよ。理系じゃないけど、理系っぽいゴチゴチの合理性とかそういうのに憧れる。で、そんなメンタリティだったら何か?
横入りレス
「できない」って言われる可能性はないの?例えば私がなにか頼みごとをしようと思ったときに、私が知らないなにかしらの事情でできない可能性ってありますよね。「まぁ、できるだろ」っていう思い込みで確認もせず頼むのは理解できない。それに世の中には「できますか?」って聞かないと、いや聞いても「できません」とは言えなかったり、言いにくかったりする人もいると思うんですけど、そういう人は無視ですか?
なんか的外れな気がする。
「できる?」ってきいて相手が出来ないって言おうが、出来るって言おうが、結局君は「できない(かも)な」と思うわけだろ。そういう事じゃねえの?元増田がいいたいのは。
ていうか「どうしたって人間なんだもん、誰に対してだってどんな時だってちょびっとは疑うよ。完全に信じるとか有り得ないでしょ?ね?有り得ないよね?合理的に(?)。無理だよね。ね」って言いたいんだよな?要するに。合理的というより、単に頭固くなってるだけっぽいが。信じるなんてあやふやな概念に合理的も糞もねえだろ。なんかエセ理系人ぽいメンタリティを感じる。
女性に対しいい意味で自然と幻想を抱かなくなったが、高校の時の友達ときたら凄かった。「え?女も腋毛生えるの?」とか言ってた。姉とか妹がいない奴はああいう風なのか?まああいつもちょっと特別なほうだとは思うけど
冬場とか姉の腋はぼうぼうだよ。風呂上りとかやべえよ。
俺「おい姉ちゃん、腋毛剃れよw」
姉「ボン!ボン!」(手を腋の辺りでグッパーさせている)
俺「何やってんだwwwwwwwwwww」
俺「小学生かwww」
姉「この腋毛をぶちってとってふって息をかけたら分身が出てくるとかだったらなあ」
俺「全然ロマンチックじゃねえからw」
姉「『見て……私の腋毛……』『ファンタスティック!君の腋毛はまるで春の風に吹かれる綿毛のようだよ』的な」
俺「意味わかんねえよwwwwwwww」
姉「腋ってさあついつい臭いかいじゃうよね。最初の頃は自分でも臭っ!とか思うんだけど慣れてくるとこれがね……」
俺「いやいや!慣れてこないから」
姉「嘘つけ。お前だって嗅いでんだろ。密かに嗅いでんだろ」
俺「嗅いでねえwwwwwwww」
姉「クサヤみたいなもんだ。最初はげっと思うが直なれる」
俺「なれなくていいから」
姉「それにしてもうんこでねえ」
姉「ガビガビ飲んだわ。チーズも食べたわ」
姉「かもな……つうか……やばくね?この腹」(腹出して叩いている)
俺「ちょっとやべえな」
姉「体重2キロ増えた」
俺「ポテチとか食ってるからだろ……『私はコンソメしか食べない』とか言って一人で一袋食ったバチがあたったんだろ」
姉「ポテチをお前と分け合って食べると、お前よりいかにたくさん食べるかという駆け引きで緊張してリラックスして食べられない」
俺「食い意地張りすぎだろ」
姉「お前も食ってたじゃん!一袋。お前もメタボなりかけてんじゃねえの?」
俺「バカヤローこのたくましい腹筋を見て見やがれ」(腹見せる)
姉「オラッ!」(腹叩いてくる)
俺「ちょwwwwwwww何wwwwwww」
姉「いや、脂肪じゃないかどうかのチェック。チッ……一応現役……腹がしまってやがる……」
俺「ていうか、しまってなかったら俺やばいだろ」
姉「私も腹筋つけてやる!ダラアアア」(突然腹筋し始める)
俺「腹筋つけてどうすんだよ」
姉「女ボディービルダーでも目指すかな」
俺「ちょwwwwwwそこまでつける気かwwwwwwwwww」
姉「腹筋割らしてやんぞ!オウ!ヨウ!ホウ!」
俺「目的ズレはじめてね?」
姉「友達未だに割れてるんだよね。あんな感じでいっちょ頼むわ」
俺「頼むって何をよ」
姉「いや、なんかあるだろ。筋トレメニューみたいなの。作っといて」
俺「自分でやれw」
姉「来週のジャンプ買ってやるからよ……あっ!!」
俺「?」
姉「ふー。出た!イエー」
俺「うんこ報告とかどうでもいいから」
姉「腹筋すんのうんこに効くのか?突然きたよあれ」
俺「うんこ談義とかどうでもいいから」
俺「小五メンタリティw」
姉「ところで生理の時の腹痛とうんこ時の腹痛の見分けがつかんのだがどうすればいい?」
俺「んなこと聞かれてもw」
姉「なんか生理中腹痛くなって、『あ!これは生理痛だな!』と思ったんだけどその直後にうんこ出てさ。そしたら痛みがなくなってたんだよね」
俺「じゃあうんこなんじゃね?」
姉「でもあれはうんこ痛ぽくない気がしたんだがなあ」
俺「てか、わかんねえよw医者に話せよw」
こんなんしょっちゅうなんだぜ?大学生にもなって「うんこ音頭」「ちんこ音頭」(自分で作ったやつ)とか歌ってるんだぜ?それを友達に言ったらちょっと泣きそうになってた。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=334578
中二病が一生治りそうにないくらいに自意識がぱんぱんに膨れ上がっている身としては、いけしゃあしゃあとこんなコミュニティに参加できるメンタリティがある健全な人たちがたくさんいらっしゃって微笑ましく思いました。ちきしょう! ちきしょう!
最近、もてない女板を見るようになった。
ただ今恋人はいるが、どう考えてもメンタリティはここの人々と近しい。
だがこの板は、物理的に貫通いたすと住人として認められなくなるらしい。
物理的にはそうであっても(脱喪というらしい)、精神的に、この異常なまでの自信のなさとか対人恐怖とか、喪的な人間を抜けきれていない(というか、そういうものをもって生まれて、それはそうそう変わらないものなのでは?)、そんなオイラをのけ者にしてくれなくてもいいんじゃないのかい?
と思ったところ、カップル板には「元喪の集い」というスレッドがあるそう。
ここには元喪だった男女が、脱喪をした今でもかかえる不安や悩み、また、脱喪で得られた喜びなどを吐露している。
そして、ここには「自分の書き込みかと思った」「私がいる」といったレスがついており、皆同じような思いをもっているのだなあと思う。
まあ、どっちみち書き込みはしないのだけど、で、思うのが、そういったメンタリティを改善したりすることは難しいことなんだよなあ、ということ。
はてな界隈では非モテというのか?これはおもに男性に使われるようだが、その人たちの頑さと、喪男板、喪女板の人たちとは違うかんじなのかな?そのへんがよくわからない。はてなの中の人たちの非モテあたりの論はむずかしいというか文字数が多くて把握しきれていない。
そもそも「もてない」という言葉が広義過ぎるし、「モテる」「モテない」っておセックス市場、恋愛市場にたいして能動的な印象だし。
そのへんにまず違和感を覚えるんだよな。
そういった市場に対して興味がないとか達観しているとか、弱者だと意識してるとかそういうわけでもないんだけど、強いていうなら「そういった市場に参画することがゆるされてるとも思っていませんですた!」「弱者どころか不能者です!」くらいに思っている身の上でございまして。(ある側面では、比喩でもなんでもなく)
過去形になった市場参画の件にしても、だからといってその市場において好成績の華麗なステップ踏んでるわけでもなけりゃ、脱しきれない喪インド(喪マインド)による苦しみとか背負って這いずり回ったりしてるわけで、物理的なことや現状どうこうでステータス表示が変わるもんじゃないメンタリティを、「非モテ」であるとか「喪」であるとか、可変的な状態を名称にしてしまうからややこしいよなあ。とか思う。
もしや、このへんのことははてダ界隈では言われ尽くしているのかしら?
で、話がずれたが(というかもともと芯がないのだが)、能町みね子さんが連載で提唱している「モテない系」(←これは女子に対して名付けているようだ)というあたりとか、みうらじゅんの「DT」とか、このへんの「モテ」関連の概念や名称について、だれかわかりやすくまとめるか統一を図ってくれぬものか。とか日曜日のお昼前に思っている元喪であることよ。
むしろそういう相手を「友人」と呼んでいる増田のメンタリティが気になる。
(もう今の大学生ぐらいの層も「知人=友人」になってきてる世代か。うわー俺歳食った)
さておき、一瞬高校かと思ったら代返とか大学なのな。だったら本当にそれこそ自由にすればいいと思うがなあ。授業料払ってる限りどう使おうと自由なんだから。完璧に学業ほっぽりだしとかなら流石に金の無駄だろうと思うけど、俺もよく自主休講して学食とかキャンパスの池のほとりで小一時間と言わず何時間もその歳でその友人たちとしかできないお喋りに高じたし、増田みたいに一人になりたいときは図書館でパチパチノーパソ叩いてたりもしたし。
曰く、大学時代の友人はかけがえがないという。それは高校までと違って自分で友人となる対象を選べる最初の世界が大学であり、そして最後の時代でもあるからだ。クラスや学年の枠に縛られたり、職場や利害関係の枠に縛られずに選べる、そしてリアルで近くなれる最初で最後の友人たち。(いや今時なら趣味の世界でネット経由で友人関係を広げるとかも可能だけどさ。)
そこに、そんな奴を紛れ込ませておく方が損だよ。それこそ人付き合い上難しいのかもしれんけどさ。
【旅の恥はかき捨て】ということじゃないのかな。
あるいは精進落としと同じ理屈で、マツリ的な非日常から日常へ戻るときに、マツリの時空間で通用していた別の論理を遮断しようとする。
きちんと調査したわけじゃないからやっぱり憶測なんだけど、戦地での戦争体験を決して語りたがらない人たちの心的な傾向というのは、戦地での論理を現在の日常に接続することにって日常の論理が混乱するからなんじゃないかという気がしている。
だからしかたがなかったんだ、という幕をひきたがる。
「ゆきゆきて神軍」のなかで奥崎健三がなぜあんなにも吼えていたのか。彼の関心は戦地での振舞いをすっとぼけていられる我々のメンタリティそのものだったように思う。彼の要求のエキセントリックさは、暴力的である一面だけではなく、やっぱり私たちのメンタリティにドスを突き刺すようなところがあるからなんじゃないかというふうに思う。
他方、戦地での振舞いと日常をアイデンティティとして連続的にとらえる傾向が強ければ強いほど、自分自身の自律性が問われ続ける。
恐らく、日本では、個の自律性が相対的に弱かったからこそ、戦後すぐに頭を切り替えていち早く日本の復興を進めていくことが可能だったんじゃないかな。
どっかの技術雑誌の囲み記事かもしれない。長いからカナリはしょった。
2割の労働力が全生産量の8割を担っているとか聞くことがある。
その2割の労働力と8割の生産量に注目した場合、同じ法則を適用すれば、0.4割の労働で6.4割の生産を担っていることになる。さらには0.08割で5.12割の生産を担えるという計算だ。パーセンテージに直せば、全労働力の0.8%分で全生産量の51.2%分を引き受けていることになる。
個人的な実感としては、「企業内の社員」と「利益のつながり」を数値的に把握することは大掛かりすぎて難しいけれど、「自分のスキル(およびそれを身に着ける過程の手間)」と「自分がしている仕事の量」に注目すると、意外にしっくりきてしまう。
自分が持っているスキルセットを考えたときに、毎日繰り返し使っている能力(たとえばコミュニケーション能力)をどのように身に着けたかに思いをめぐらしていると、実は苦労して身に着けたスキルは、(少なくとも直接的には)実際の生産につながっているとは限らない。たとえば大学の受験をしたころ(遠い目)に苦労して身に着けた物理の計算など全く使うことはないし、新入社員のころ研修で毎日残業しながらしつこつ教えられ身につけた一般的なスキル、そんな能力自体を直接的に活用して仕事をこなしている人というのが多数派かというと、それが少々、あやしく感じられる。
PCのアプリケーションなどもいい例かもしれない。イラストレーターという高機能なソフトウェアがあったとして、ふだん自分が使っている機能は全体の何パーセントだろうか?おそらく1%にも満たない部分でほとんどの仕事は済んでしまう。非常に細かい環境設定であるとか、画像の補正機能なんていうのは、それこそロングテール部であって、その機能を必要とする作業にとってはとても価値が大きいけれど、ふつうの大雑把な画像作成には不要なわけだ。
Windowsのペイントは、イラストレーターと機能を比べたら、1%くらいの機能しかないかもしれない。しかし、
ふたつの比較を見比べてみても、違いとしては前者の方が大きいだろう。スキルや能力を3段階考えて、レベル1:全くできない・レベル2:少しだけできる・レベル3:何でもできる、とした場合、レベル1とレベル2の差は、レベル2とレベル3の差とは比較にならないほど大きい。
分業によってプロフェッショナル化が進んだ社会だということで、自分の中のプロフェッショナル的な部分は大切にして伸ばしていくことが当然好ましいだろう。けれど、ゲーテの時代から叫ばれていた、「自分のスペシャリティは、オールマイティに能力をつける過程の中で見出すべきだ」という教育の理念を、最近の社会や個人は忘れがちだ。
自分がやりたいことを突き詰めるのはよいことだろうけれど、自分が専門を持っていて狭く深いスキルを持っているということと、自分がさまざまな方向に興味をめぐらして浅く広いスキルを持っているということ、この二つは全く矛盾しない。社会にフレッシュな新人があふれているこの季節、いろんなことを試してみるという方向性のメンタリティを、斜に構える前に身につけてもらえたらなぁ、などと、いちコラムニストが考えているのは、これは大きなおせっかいであろうか。
長かった、やめときゃよかった。。。
あとエピソードが長かったから省略したせいで誤解あたえちゃまずいんだが、筆者はコミュニケーション能力はスグ身について広範に利用できる「1%」側のスキルだと考えてるみたいだ。その点は私も賛同するが、ハテナ内のウケは悪そうだなw