はてなキーワード: ブルマとは
2年くらい前までどっぷり「成人向け」のジャンルでつくる側の仕事をしていて、今回の騒ぎについて思うことがあるので書いてみる。
自分はエロゲを、まぁ2本、それと数え切れないほどのエロ雑誌をつくってきた。雑誌のほうは風俗モノからいわゆるロリマンガまで多種多彩。ある程度、何が売れるかもわかっているつもりでやっていた。
そんな自分から見て、まず思うのは、最近の一般マンガ誌はひどいな、と。「○○がエロすぐるwww」なんて草生やしてる場合じゃないな、という思いがある。
早い話が、「エロトピア」や「快楽天」より「チャンピオン」がエロかったら、それはいけないことだと思うんだ。表紙に「18禁ですよ」と書いてあって、最近じゃシール留めもしてあって、そのなかに初めてエロというのは存在すべきものだと思うんだ。そういう、自分たちの仕事に対する後ろめたい気持ち、良く言えば、慎み、を持って、少なくとも自分は仕事をしてきた。
たとえばもう10年近くまえになるけれど、「はじめてのおるすばん」というエロゲが発売されたことがあった。双子の少女といっしょにお留守番をしながら、少女たちにエロいことをしたり、されたりするゲームだ。しおりとさおりの姉妹は体操服にブルマだったり、パジャマだったり、もちろんハダカだったりするわけだが、誰がどう見たって完全に小学生なのだ。だけど、このゲームは一切の規制を受けなかった。それどころか、最近でも続編が発売されている。なぜなら、メーカーは彼女たちを「18歳以上です」と言い切ったからだ。
エロの発信者たちはそうやって、自分たちがニッチを相手に商売していることを自認しながら、社会のルールと折り合いをつけて生きてきた。バカだと思われても構わない、少女を描くならそれが「18歳以上である」と言い張り続ける努力をしてきた。そこにエネルギーを使ってきたし、レイティングによって客層が限定されるなら、その限定に甘んじてきた。それ以上の層に(つまりは18歳未満の層に)自分たちの商品を提供しない、という枠の中でしのいできた。そこには明確な棲み分けがあったはずだ。
先にルールを破ったのは、出版不況とやらにあえぐ大手出版社の少年マンガ誌ではなかったか。
エロ業界が必死に言い張ってきた「この娘たちは18歳以上だ」というバカバカしい主張をスッ飛ばして、彼らは「こどもですよメコスジですよ赤貝ですよ」と、そういうものを流通に乗せてきた。魔法少女だから、人間じゃないから、少年誌のなかで少女のマンスジや顔射を描いていいなんて誰が言ったんだ。
エロ屋のつくるものはエロくて当たり前だ。だからオレたちは知恵を搾った。血尿を垂れ流しながらドラマをつくった。「オレたちの表現は自由だ」と、そう自分たちに言い聞かせながら大手に対するコンプレックスを飼い慣らして、仕事をしてきた。
ところが、大手がタガを外した。言い訳を考える手間すら費やさずに、コンビニにマンスジを並べた。小さい弟も大きいお兄ちゃんも、それに群がった。規制の話が出るのは当たり前だ。
表現の自由なんて声高に叫ぶ前に、考えなきゃいけない。先にルールを破ったのは誰だ。本当に自由を、文化を、殺そうとしているのは誰だ。「非実在青少年」なんて意味も味気もない日本語を生み出した元凶は、いったい誰だ。
ルールがないことと自由とは同義じゃない。エロの世界でも優れた表現や作品は数え切れないほどあるし、たとえ優れていない作品がそれ以上に存在していたとしても、それでも世の中の多くの男にはエロが必要なんだ。誰かの尻馬に乗っかって批判のための批判を叫ぶよりさきに、考えることがあるんじゃないか。ユーザーのために、オレたちは仕事をしていたんじゃないのか。
「ブルスク」と聞けば、「ああ、ブルマスクール水着のことだな」と誰もが思うだろう。
そう、ブルスクからブルースクリーンを連想する人はまずいない。
セーラー服と合わさって、三種の神器と呼ばれることもあるくらいだ。
しかし、少数の「ブルースクリーン派」が必死に頑張ってるらしく、
google画像検索してみると、ブルースクリーン画像とブルマスク水画像が均等に出てくる。
http://images.google.co.jp
しかし、実にユーモラスではないか。
ブルマスクール水着という平和の極致と、ブルースクリーンという悲劇の極致にある画像が並んでいることに、
対比のエロティシズムを感じざるを得ないだろう?
元増田。
http://anond.hatelabo.jp/20091117113027
単行本21巻80ページ以降で、重傷を負わされたベジータの逃亡先について考えるブルマの以下の台詞が決定打になるだろう。この台詞に対して「ブルマたちの想像はけっしてまちがってはいなかった………」ナレーションが入り、その直後のシーンで登場する(ベジータが逃げ帰った先の)星の名前が「惑星フリーザNo.79」。さらに、傷を治癒させたベジータがフリーザについて「もうこの星があきやがったか」と口走っている事からも「(星を買う)異星人」とはフリーザ一族と考えるのが妥当のような気がする。
う~ん……
前に孫くんの
アニキってのが
いってたわね……
"われわれは
環境のよい星に
住む者を 絶滅させて
異星人に売る"
んだって
その異星人の
ところで治療して
もらうのかしら…
たとえ宇宙最強でホイホイ星を木っ端微塵に出来る力を持つフリーザといえども、だだっ広い宇宙を単身かけずり回って一つ一つ星を制圧するのは面倒臭いはず。ナメック星には宇宙船でやってきている事や、ナメック星内を全力で移動してもそれなりに時間がかかっている事から、自分の手足となる有能な戦士達を集めて使役させる方が良いと考えるのは当然だろう。
そうやって「(ポロリの声で)わたくしの趣味に協力する戦士達を募集しますよ」とあちこちに広報し、星の売買ビジネスを生業にしてきたサイヤ人が応募してきた、という流れだと、あまり不自然ではない気がする。いや、サイヤ人はフリーザの趣味のために星の売買ビジネスに手を出したという可能性もある。
動物の剥製(星)を集めるのが趣味で、普段は専属契約してるハンター(サイヤ人など)から購入してるけど、気が向いたときは自分で狩りに赴く(ナメック星の件)こともある。
といった感じか?
まだまだ未解決な部分もまだあるが、少しはイメージが見えてきた気がする。
仮に性差がなくなり、相手がいれば単純に生殖活動ができるナメクジのような生物に
我々がなったとしたら
また、その場合の人間社会とはどんなものだろうかと妄想してみた
・モテ=人間力の高さ という構図が現状以上に直結しやすくなる
→一度も相手がいた事がありませんという表現が今以上に致命的になる
・性差がなくなるので、男側であった収入によるモテ・非モテの格差が解消されるか、今以上に小さくなる
→もしくは同ランクの収入・価値観を持った同士で結びつきやすくなる
・性差がなくなるので、容姿によるモテ・非モテの格差が今以上に小さくなる
→女性でも容姿は悪くないのに、女っぽくない容姿のため損してる人とかいますよね そういうのが縮小される
・欲情する対象に性差に基づいた文化的なものがなくなる
→スカートだとか、ブルマだとか、ニーソだとかそういった性差に基づいた文化的な萌えとか欲情対象とかがなくなります
・エロ本がなくなる
→性差による欲情対象がなくなるのでエロ本がなくなるか、その意味合いが大幅に変わる可能性
・カツマーがいなくなる
→女性型文化社会なのか、男性型文化社会なのかわかりませんが、ジェンダー差によるギスギスしたものが縮小
→人間皆平等
→できる奴、モテる奴、収入のある奴 と そうでない奴の 差が明らかに
・友情の崩壊
→友情=恋愛感情となる可能性大
・人口飽和
世の中には株価とか景気の指標があるけれど、スカートの長さが景気と連動しているということも、よくいわれる。株について言えば、景気が良いから株が高いのか株が高いから景気が良いのか、微妙なのも周知なところである。スカートについても、実は同じことが言えるのではないか。つまり、スカートが短いから景気が良くなるということである。
これは少し考えればわかる。スカートが短ければ女性はパンツにも気をつかう。これがロングスカートだったら、タイムセールの3枚1000円のパンツでごまかされてしまう。パンツが300円と3000円とでは大違いである。女性が年間に買うパンツを10枚とすると、単価が300円と3000円とでは年間27000円の差が出る。全国には6000万人の女性がいるので、この差は実に年間1兆6200億円にもなる。波及効果を考えれば、パンツが内需を動かすといって過言ではない。景気回復のためには、短いスカートが必要であることは、もはや言を待たないものである。
ただ、近年の傾向を見ると、問題がある。確かにスカートが短く景気が良かったときもあるが、その景気は庶民に実感されるようなものではなかった。実感なき経済成長である。何かを見落としているといわざるを得ない。
ここで、バブル崩壊以降、継続して長くなっているものに目を向けたい。それは、女子体操服である。ブルマが廃止されて以降、日本は沈滞した雰囲気から抜け出すことができないでいる。心の景気回復のためにも、民主党は公立学校のブルマ復活に全力をあげて取り組むべきであると、声を大にして申し上げたい。
追記
神原則夫先生が、アカギを超える長寿連載として期待されていた「西校ジャンバカ列伝かほりさん」を終わらせてまで取り組んだ「世界に羽ばたけ轟先生」があと3回で終了するそうな。もうこの国は駄目かもわからんね。
誰かに連れられて講堂みたいなところに入ると、なんか小学校低学年くらいの少女合唱団的な集団が歌ってんの。で、父母がそれを見てる。
後ろの方で立ち見していて、違和感に気づいてよく見たら上は制服(紺のブレザー)なんだけど下はブルマ若しくはなにもはいていない。
おおこれは保存しなければと思い平然を装って僕はPrintScreenを押した。
その瞬間僕はいつの間にかPCの前に座っていて自分の目で見ていたはずの映像がディスプレイに表示されていた。妙にメタ的というかデジタルに侵されているというか。
その後視点はディスプレイの中の僕に戻って、xx先生が呼んでるよ~と言われ「やべえ保存したのばれたかな…」と思った。
で目が覚めた。
風邪薬を服用していてちょっとラリっていたことと、寝る前にセブンスドラゴンをやっていたのでプリンセスの聖声スキルが頭に残っていたのだろう。僕のロリコンは二次元限定免許だったはずなんですけどね。
もうみんな提灯ブルマでいいじゃない
妹が高校生なのですが、新潟の各高校で、最近になって急にでスカート丈が短いということで規制が行われております。
学校に行くと超チェックされ、各学校にビラとか張り紙とかも張られておる模様です。それが新聞やニュースに取り上げられる毎日で、へーって感じだったのですが、ニュース新聞で大々的に、
1、性犯罪被害の防止!
と第一に謳っているのに絶句。最近気がついたよ。
ちなみに2つ目は冷えの防止だそうです。
そもそも、ミニスカートをはくと性犯罪が増加するという前提がないと、1は声を大にしていうことができないはずですが、そのような事実は今のところ私はお目にかかったことが無く、しかも「女性が挑発的な格好をしているから性犯罪にあう」というのが幻想に過ぎないことは、レイプ被害救済の機関や、警察が訴えてることです。
http://www.police.pref.hiroshima.lg.jp/010/soudan/keimuhig/htm/genjyou.htm
性犯罪防止を大々的にいうということは、挑発的な格好が性犯罪を助長するという幻想を根拠にしているという末恐ろしいことを教育機関がしているということだし、そのようなことを大々的に訴えるということは、被害者への差別にもつながるだろうよ・・・。
新潟の教育、恐るべし。ていうか学校が恐ろしいのか?ていうかバカなのか?なんなのか?うひょ~。
そもそも、このキャンペーンがとてもバカらしいなぁと思うのは、各学校、そもそもミニスカートを制服にしておきながら、(ていうかミニスカの制服って、一昔前のブルマと同じくらい教育関係の誰かのエロい意思を感じざる終えない)、その制服の丈がみじかいとぎゃーぎゃーいっていることなんですよね。
本気で学生のひえを心配し、性犯罪がミニスカートで増えるって言うなら、そもそも制服をパンツスタイル(ズボン)にするか、ロングスカートにしろよといいたい。
やってる側が、「なんかミニスカむかつくよね?」見たいな感じで中途半端にやってるキャンペーンが学生に伝わるかどうかは謎ですが(多分バカにされて終わるだろな)、本気なら女子もパンツとかロングスカートにしてみろよ~。スケバンみたいに超長いやつ。
「恥ずかしがってるー」 女子生徒らが男の前でも抵抗なく着替え…日教組王国・三重の日常
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1180679.html
数少ない甘い思い出の中に、上の記事と関連するものがあったのでネタにしとく。
小5の頃、着替えは男女で同じ教室。習慣的に自分の席で着替える。席は班制だから周辺の男女比1:1。
思春期。まだだったと思う。毛も生えてなかったし。女子もブラしている人が少数派。
異性に対して淡い感情は抱いても、モヤモヤ考えるほど成熟していなかった。そんな年頃。
当時、僕は隣の席のナオちゃんに惹かれていたのだろう。気立てがよくて優しくて、僕の話によく笑ってくれた。笑顔がかわいい。
2学期、彼女と新聞係になって以来、僕の部屋で記事ネタを考えたり取材で自然公園の動物を見に行ったりと、今の僕では考えられないくらいデートらしいデートをしていた。
今思えば、ナオちゃんも僕に気があったのかも。新聞係は4人だったが、ペア行動では率先して僕と組みたがった。
僕のお誕生日会を企画してくれたのも彼女だ。もちろん、お姉さん気質だったというのもあるけれど。
それでも、このままずっと一緒だったら、もっと時間を共有できていたら、甘い恋愛コースまっしぐらだったかも知れない。
ある日、体育の時間が終わり、僕たちはいつものように自分の席で着替えを始めていた。
隣にはもちろんナオちゃんがいた。僕たちは向かい合って着替えながら、新聞記事について話し合っていた。
互いに砂まみれの上着を脱ぐ。小学生の体操服。真冬でも半袖・半ズボン(女子はブルマ)しか許されなかった昭和の暮れ。秋口にインナーウェアを着る者などいない。
白い上着が首筋をとおり、瞬間、視界をさえぎり、脱ぎ捨てられていく。それが日常。
だけど僕はその時、上着が頭を抜け、視界が明るんだその時、ふと目の前で同じく上着を脱ぎ捨てたナオちゃんの姿を見た。
僕の目はその2点に吸い寄せられた。白い柔肌のキャンバスに置かれた桃色の印。目がいかないわけがない。
ほんの一瞬だったと思う。上着を脱いで、椅子にかかったシャツを着るまでの数秒。しかし、彼女は僕の視線にめざとく気づいていた。
「きゃっ」
小さな叫び声が会話を寸断する。
今まで目を奪われていた桃色の2点が、白い体操着によって覆い隠される。
その声に困惑し、僕は何か悪いことをしたような気になった。すぐにナオちゃんの顔をうかがう。
体操着で口元まで隠した彼女の頬が、みるみるうちに紅潮しているのがわかった。実際に人が紅潮をするのを、このとき初めて目撃したと思う。
交わす言葉のない微妙な間、ナオちゃんは苦笑いを浮かべ、僕は横を向き、互いに淡々と着替えを始めた。
3学期の終わりをまたず、僕も近畿(三重も近畿とか言うな)へ引っ越した。
近畿の小6。
僕が入った小学校は、教室ごとに扉のないオープンスペースなつくり。
体育になるとメイン教室で女子が、隣のフリー教室で男子が着替えることになる(各クラスで2教室完備!)。
しかし各教室に扉がなく、隣のクラスとも廊下のみでつながっているツリー構造。
体育の時間になると、必然的に隣のクラスの女子が着替えている教室を横切ることになる。
僕たち男子は後ろを向いて横走りで駆け抜けるのが習慣になっていた。最初は何も知らず、そのまま横切ると罵声を浴びた。
「えっち!」「へんたい!」「ちかん!」
しかし、後ろを向いたら向いたで、鏡つきの流し場があったりするのが、今になると笑える話だ。
男子たちは目をつむる振りをして、チラチラ鏡の奥を見ては、目当ての女子のブラ姿などをチェックする。
三重から近畿に飛び出し、学年も小5から小6に変わる頃、もしくはナオちゃんの乳首を見て以来、僕は急速に性を深めていったと思う。
男子と女子の明確な対立(三重ではなかった)、男女別での保健指導(陰毛と生理)、恋の話(修学旅行)、性行為の発見(エロ本)。
サヨク 「理解できないようですね。ならば一から説明しましょう。
この作品の主人公は明らかに争いを好む性質で――中略――このように紛争を暴力で解決することを助長する危険性を内在しており……」
ウヨク 「どこからそんな発想が出てくるのか分からん」
サヨク 「こんなに丁寧に説明してるのに、まだ分からないのですか?
私の主張が理解できないのに飛躍していると言うなんて、なんとアタマガワルイのでしょう」
http://anond.hatelabo.jp/20080814153428
手元にDBないから確認できないけど、ブルマがツッコミいれたんだっけ?
増田がそうだってわけじゃないが、そこを見て「ほら作者もこう言ってる!」と思う人と、
うわー、いろいろありがとうございます。こんなにブックマークつくの初めてだ。なんてこったい。
元増田にとっては一部のまとめ系サイトがアイマスファンを煽る?ような取り上げ方をしているのが、
なんだか印象に残ってて、なんでこんなことになってるんだろうと思ったのがきっかけでした。
きっといろんな見方があるんだろうなと思う。トラバとはてブのコメントも方向性が若干違うし、
なんだか本人以上に言及する人間層も不思議な感じなのかな。これを機会にいろんな見方が集まったら、
少しは客観的に見られるようになるのかな? どうかな?
ちなみに元増田にとって落合さんはヤンデレ妹とブルマくんの声の人だったんだねー、って感じだったりします。
嫌いじゃない声なんでちょっと覚えておこうかな、程度の印象。アイマスはゲームもやってないし動画も多すぎるので
避けて通ってたもんで……これから気にしておこうかと思います。
これまでこのことについて他人に話したことはほとんどなかったけれど、死刑執行された今後、もう話題に上ることもないだろうと思うとふいに記憶が惜しくなった。
=====
21年前、小学2年生の時だ。幼なじみと近くの林で遊んでいた。道路のすぐ横が斜面になっていて、そこの土は他と違って粘土質で土遊びにもってこいだったため、私たちの格好の遊び場だった。
斜面は道路を隔てて中学校と住宅に面していた。とはいえ繁華街からは遠く離れており、人通りは多くない。住民以外は滅多に見かけない土地柄だった。当然、知らない人にはついて行かないようにと教えられていた。
見知らぬお兄さんが、道に迷ったといって私たちに声をかけてきた。小さな白い車に乗ってきたらしく、地図を広げて「○○公園って知ってる?」と聞いてきたのだった。
お兄さんが探している公園は私たちの通う小学校に隣接していて、この住宅地の中では一番大きな公園だった。家からは子供の足で20分はかかる。よく知っている公園なので、私たちはすぐにお兄さんに道を教えることができた。
「やっぱりよくわからないから、車で一緒に乗って行ってくれない?」
「でも知らない人の車に乗っちゃ行けないって言われてるから」
私たちは断り、もう一度道を説明した。だがお兄さんはその場から離れようとはしなかった。
「まだ時間があるから、一緒に遊ぼうよ」
「何時まで?」
「4時に仕事があるから、それまで」
私も幼なじみも時計を持っておらず、5時に消防署のサイレンが鳴ったら帰ってきなさいと言いつけられていた。知らないお兄さんと遊ぶのに警戒心がなかったわけではないはずだが、4時までと時間を区切られたことに安心したのだと思う。
「じゃあいいよ、一緒に遊ぼう」
私たちは彼を受け入れた。
しばらく3人でしゃがみ込んで土をいじっていたが、お兄さんが「この崖の奥はどうなってるの?」と立ち上がった。粘土質の斜面を上がると木が生い茂り、ちょっとした探検気分が味わえる林になっていた。
「ちょっと見てみたいから、一緒に行こうよ」
誘われて、林の中に入っていった。
大人の足は、子供の踏み入れたことのない場所まで分け入ってしまう。
「この先は行ったことがないから怖いよ」
「今何時? 公園に行かなくていいの?」
という私に、彼は
「大丈夫だよ」
と気にせずどんどん林の深くに進んでいく。私は不安だった。大人の目の届くところで遊ぶつもりが、知らないところで知らない人と遊んでは母の言いつけを破ることになる。知らない人と遊ぶことがどうしていけないのかきちんと考えもせず、ただ言いつけにそむく後ろめたさが不安の理由だった。
やがて少し開けたところに出、花か草かを摘むためだったか、私たちはまたしゃがんで遊び始めた。
3人で車座になり、そこで私たちはお兄さんに名前を聞いた。お兄さんと私と幼馴染の苗字には共通点があった。3人とも「宮」の字がつくのだ。
「一緒だね」
「おそろいだね」
そう言い合った。それで私は彼に親近感を覚え、不安は薄れた。
お兄さんは特に何をするでもなく私たちが遊ぶのを見ていた。そのうち私は、妙にお尻がくすぐったくなってきた。木の枝でも当たっているのかと見てみても、それらしきものはない。変だな、変だな、と何度か思ううち、それがお兄さんの手のせいだと気づいた。スカートの下に手をもぐらせて、ブルマーの上からおしりを撫でているのだった。
子どものおしりを触る大人というものが私には不可解だった。大人の男の人は大人の女の人のおしりを触るもので、それがエッチなことであると知ってはいた。そのはずが、なぜ子どもを触るのか、お兄さんの行為が不思議だった。
私は触られるのがいやだと思った。変な触り方をするからだ。くすぐるようにこそこそと撫でるのでむずがゆかった。だが抗議をするのに少しためらった。大人の女の人は大人の男の人におしりを触られたら怒るものだ。クラスの男子にスカートめくりをされたら、女子は怒るのが当然だ。だが、大人が子どもに触るのも同じように怒っていいのだろうか。
このあたりの葛藤は今でもよく覚えている。このころはまだ、ペドフィリアというものの存在が今ほど広く認知されていなかったせいだろう。子どもにいたずらする大人はいるにはいたし、母親たちもそれを警戒していただろうが、私たち子どもには「知らない大人についていかないのは誘拐されて身代金を要求する悪い人がいるから」だと教えていた。幼児に性欲を向ける大人の存在は子どもたちには隠されていた。その存在が大きく世間を騒がせるのは宮崎勤事件以降のことだ。
ついに私は勇気を出して声を上げた。
「おしり触ったでしょー」
「触ってないよ」
「触った!」
「いいじゃない、ブルマはいてるんだから」
「そうだよ、ブルマはいてるんだから」
幼なじみは私よりもさらに世知に疎く、幼かった。彼女には年の離れたいとこがたくさんいたから、お兄さんに遊んでもらうのに警戒がなかったのだろう。
今ならそんな言葉に言いくるめられるわけがないが、幼なじみの援護もあって当時の私は納得した。これ以上抗議するのも大人ぶっているようで恥ずかしかった。
何度目かの私の「今何時?」攻撃にお兄さんは重い腰を上げ、3人は林を戻り始めた。私たちは元の斜面に出たところでさよならのつもりだったが、お兄さんは
「まだ遊べるよ」
と言う。
「お仕事でしょ? いいの?」
「なくなったんだ」
携帯電話の普及していない時代だ。彼の言い分は不自然だった。父の姿から、大人にとって仕事は何より大事なものだと思っていた私に、また彼への不信感が芽生えた。
「ここじゃなくてもっと広いところに行こうよ」
「どうして?」
「ボールがあるから、それで遊ぼう」
彼はゴムのボールを持っていた。野球ボールくらいのサイズだったと思う。
「○○公園は?」
彼は最初に尋ねた公園を挙げた。
「そこは遠いよ」
「車に乗っていけばいい」
「知らない人の車に乗っちゃいけないって言われてるから」
「もう知らない人じゃないでしょ」
「でも……5時になったら帰ってきなさいって言われてるから」
私の抵抗に比して、幼なじみはあっさりしたものだった。
「××公園なら近いから、そこに行く?」
と彼に提案し、私もその案に妥協した。彼と遊ぶのが楽しいらしい幼なじみを見ていると自分の警戒が的外れなように思えて、ブルマの言い訳同様彼女に従ってしまった。
車には乗らないと私が強情を張ったので、公園まで3人で歩いた。
公園には時計があった。正確な時間は覚えていないが、4時は回っていた。
しばらくキャッチボールをして遊んでいると、大きなサイレンが鳴った。消防署のサイレンだ。
「5時になったから帰らなきゃ。Mちゃんも帰ろうよ」
私は幼なじみに促した。
それなのにお兄さんは、
「まだ明るいから平気だよ。それよりもっと広いところに行こう。やっぱり○○公園に行かない?」
と誘ってくる。
私は刻々と時計の針が5時を過ぎることに落ち着かず、とにかく帰る、と繰り返した。
「Mちゃん、帰ろう」
Mちゃんが誘拐されたらどうしよう、となんとか一緒に帰るよう幼なじみを口説いた。幼なじみは迷っているようだった。同じく門限は5時だったが、お兄さんの誘いも魅力的だったのだろう。私はこれ以上、母の言いつけを破るのはいやだった。
「私、帰る!」
帰ろうとしない幼なじみを置いて、私は走って公園を出た。早く帰らなきゃ、と思う頭の片隅で、幼なじみを置いてきたことが気がかりだった。
家に帰ると、母が夕食を作っていた。
「おかえりー。だれと遊んできたの?」
「Mちゃんと」
知らないお兄さんのことは言わなかった。
何日か後、部屋で遊んでいる私のもとに深刻な顔をして母が入ってきた。
「あんた宮崎さんって知ってる? こんな手紙が入ってたんだけど……」
母の手には、折りたたんだルーズリーフが握られていた。
「あっ! この間、Mちゃんと一緒に遊んだ人だよ」
私はばつの悪い思いをしながら、母に説明した。母は眉を曇らせながら聞いていた。
「最近見かけない車がこの辺をうろうろしてたけど、その人だったのかもね。あんた宛にこんな手紙がポストに入ってるから、何があったのかと思った。そういうことはちゃんと言いなさい」
「ごめんなさい、車に乗らなかったし、5時に帰ってきたから大丈夫だと思って」
「それはえらかったね。それにしてもMちゃんも無事でよかった」
そう言って、母は幼なじみの家に電話をかけた。あのあと幼なじみも私の直ぐ後に帰り、同じような手紙が入っていたらしい。
大人たちは真剣な面持ちで何度か話し合いをしていた。家を突き止められた以上また会いに来るかもしれないが、今度こそ大人を呼ぶようにと言い含められ、手紙は母の管理化に置かれた。
ことが大人の手に渡れば、子どもが心配するようなことはないと思った。私はそれきりそのことを忘れた。
2年後、私は4年生になっていた。テレビから連日、幼女誘拐殺人事件の報が流れていたある日のことだ。
お風呂上りにテレビを見るともなしに眺めていた。相変わらず、宮崎勤容疑者が映っていた。画面の中から、彼の青白い顔がこちらを向いた。
その瞬間、経験したことのない感覚がぞーっと駆け巡った。冷や水を浴びせられたような、とはあのような感覚を言うのだろう。あのときはそんな言葉もしらず、混乱して呆然と突っ立っていた。
「あのときの人だ!」
宮崎勤の顔を見たのはこれが初めてではなく、何度もテレビで目にしていたのに、なぜ今まで気づかなかったのか。
受けた衝撃は言葉にならず、私は黙って自分の部屋へ引っ込んだ。
1人で2年前のお兄さんの顔を思い出そうとしてみるが、はっきりと思い描けない。色の白い、穏やかそうな印象しか覚えていない。
ただ似ているだけの人だろうか。だが私はさっきの戦慄で確信していた。あれは宮崎勤だったのだ。
それから、母に一度、幼なじみに一度、話したことがある。人に言っても信じてもらえないだろうと思っていたから、打ち明けるのに慎重を要した。
「2年生のときに会ったお兄さんを覚えてる?」
母は、
「あのときの手紙、どこかにまだあるはずだけど。あれが宮崎勤だとしたら、殺されてたのはあんただったかもしれない」
と言って恐怖を分かち合ってくれた。
幼なじみは、
「そうだった? あのお兄さん、山口さんって言ってなかった?」
と反論した。
いずれも、2度は話題にしなかった。
私の勘違いならそれでかまわないのだ。小さかった私に起こった奇妙な出来事と、例の凶悪犯と、接点がないならそれに越したことはない。
普段は忘れているが、ふとした折、4年生の私の体を襲った心底からのショックを思い出す。あれはなんだったんだろうかと。あのお兄さんが宮崎勤でないなら、私が受けた感覚はなんだったんだろうかと。
高校のころ図書館の書庫で本読んでたら委員長(♀)がやってきて、「あつい??」などと
言ってスカートをバタバタしはじめた。生足がエロくてチラチラ見てたら、いきなり唐突に
「ねぇ、パンツ見たい?見せてあげよっか?」などと言い出して、俺がキョドってたら
委員長が自分でスカートまくって持ち上げた。そしたら中にブルマはいてやがった。
で「ひっかかった??、いまスゴイやらしい目になってたよ」などと笑うので俺はカチンときて
スカート持ち上げてる委員長の手を固定して、ブルマに顔近づけて観察してやった。
そしたら「ちょっとお、止めてよー、怒るよ」とかいってたが、そのうち太ももをモジモジさせて
白い太ももがだんだんピンク色に染まってきて息が荒くなってきて目も潤んできたので
「ばーか、濡れてんじゃねーよw」といって解放してやったら顔を真っ赤にして
「自分だってチン・・・」と言いかけて黙り込んだので「何をいいかけたの?チンて何」と
問い詰めたら黙り込んだので「これのこと?」といって
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
今ではアニメの中に女性の科学者やらエンジニアやらのgeekなキャラ(と言って正しいのかな?)が
出てきても違和感は全然なくて、泉こなたみたいな女性nerd(これは誤用だよな)が主役を張るような時代だけど、
『電脳コイル』を見直していて、そういえばイサコ、フミエ、メガばあ、オバちゃんと4人も
女性のgeekが出ているなと今更感心したところでふと沸いた疑問。
「じゃあ、フィクションで女性のgeekが現れ始めたのはいつ頃で、それが当たり前になったのはどの辺?」
起源については全然知識がないんだけど、自分の記憶を掘り起こすと、アメリカの映画やドラマでは
『ナイトライダー』(1982-1986)におけるK.I.T.T.担当メカニックボニー・バーストウとエイプリル・カーティス、
『エアーウルフ』(1984-1987)の第4シーズンに登場したジョー・サンティーニあたりの印象が強い。
アメリカではこのころにはある程度そういう像が確立していたんだろうと思う。
じゃあ日本ではどうなのかというと、これが情けないことに『新世紀エヴァンゲリオン』の赤木リツコ以前を思い出せないんだ。
アニメとか特撮とか結構見ていたはずなんだけど、どうも出てこない。
類型としちゃ『ドラゴンボール』のブルマなんてぴったりではあるんだけど、彼女はgeek属性が前面に出てるキャラじゃないし、
その属性がメインであるキャラクターの系譜ってどんな具合なのかを、皆さんにお伺いしたいのです。