麦茶を飲み干したまま空のお茶ポットを冷蔵庫に戻すのは誰が見ても有罪だろう。
新しい麦茶バッグの場所がわからないなどの理由があったにせよ、空のまま瓶を冷蔵庫に戻す意味がない。次に誰かが麦茶を作ってくれるまで瓶を冷やしておこうと思った、くらいの言い訳しか思いつかないが、これとて常温の水を入れるので意味がない。
しかし、牛乳やジュースを一口だけ残すの本当に悪いことだろうか?
その時飲みたいだけの分量を注いだらたまたま一口残った、そんなことは普通にあることだ。それとも、一口残さないために無理して飲みきれというのか?それは飲み物の無駄ではないか?
冷蔵庫の中には次の買い置きが控えているだろう。次に飲む人が最後の一口を使い切り、新しいパックを開けて足せばいい。そうすれば無駄がない。腹を立てる意味がわからない。
それとも「空になったパックを捨て、新しいバックを開ける」という役務を自分にだけ押し付けられたと感じているのか?
しかしそれは違う。「飲みたい分だけ飲み、一口だけ残ってもかまわない」という運用をしていれば、誰の番でパックが空になるかは不確定だ。新しいパックを開ける役務も全員に平等に等確率で回ってくるはずだ。「なくなる寸前の人が担う」と「なくした当人が担う」でいったいどこがどう違うのだ?
トイレットペーパーも同じだ。いや、トイレットペーパーはもっとわからん。
麦茶や牛乳は残量が誰にでも一目瞭然だが、トイレットペーパーがどれだけ残っているは、ホルダーの形状によってはまったくわからなくないことがある。
横から芯や軸まで見える形状のホルダーならともかく、使い切って初めて終了が判明するくらい両側をガードされたホルダーは家庭用だってたくさんある。
引き出したペーパーがヒラヒラのシワシワになればいよいよ終了間際であることはわかるが、うっすらシワがより始めたくらいでは終りが近いことはわかっても、あと何回分残っているかまではわからない。終わりが近そうだからここで使い切ってしまえ、と引っ張り続けてみたものの、予想外に残量があって多くのペーパーを無駄にしてしまった経験は誰にでもあるだろう。
わざわざそんなリスクを冒す必要はないのだ。必要な分量だけ使えばいい。残量が一回分に足りるか足りないかなど勘案する必要はない。足りていようが足りていまいが、というか確率的にはほとんどの場合足りていないに決まっているのだが、トイレットペーパーを使い切るという機会はトイレの利用者全員に平等に当確率で訪れるのだ。天然自然の確率に従うだけで公平公正が保たれるというのに、なぜそこに「残量僅少の際は無駄とわかっていても使い切って次の人のために新しいロールをセットすること」などという珍ルールを設定するのだ。足りなかったペーパーは次の人が新しいロールに足して使えばいいじゃないか、そのほうがよほど無駄がない。
これ3つとも分かる派なんだが。冷蔵庫の牛乳やトイレのペーパーに求められるのは次の人が一回分使える状態にしておくことでしょ。別にそれが求められてないなら使う人が交換するル...
お前ちゃんと全部読んでる? それとも一定文字数より長い文は読めない知的水準? それとも見出ししか読まない主義? なんでもいいけど全部読めよ
🐊「オッ…オレに聞かんでくれえッ❗️❗️!!!!❗️」
Fラン大学生のレポートじゃないんだから膨らましゃいいってもんじゃねーだろ。かったるいから後半読んでねーよ。 牛乳にせよトイペにせよ一回の標準量くらいコンセンサス持っとけよ...