「ユアストーリーする」とはそもそもどういう意味なのだろうか。
思うに「スタッフと鑑賞者の間で物語を共有しているという認識が崩壊した」こそが「ユアストーリーする」なのではないだろうか。
単に「クオリティの低い作品を見せられる」というのは違うと思う。
あのラストがあそこまで衝撃的なのは「所詮はゲームである」と作中で語られたことにある。
それをひっくり返して「でも、ゲームは大切な思い出だよな」と揺り戻すことが出来れば、ある種の吊り橋効果によって制作サイドと鑑賞サイドが"マブダチ"になれた可能性もあるだろう。
でもそうはならかなったんだよ。
実際に「いやあ所詮はゲームとは思いますが、ゲームって本当にいいものですねえ」をした作品もある。
『ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん』はゲームに真剣になることが、人生に対しての素直な姿勢を呼び起こすという物語である。
あまりにゲームに本気になりすぎて「流石にもうゲームやってる場合じゃないだろ」と見てる側が不安になるほどである。
古い作品だと『ニュー・シネマ・パラダイス』は「映画は所詮まやかしだ。お前の人生を生きろ」と作中で語りながらも、そのまやかしを通じて素晴らしい時間が確かに人生に生み出されていたのだと言葉よりも強いナニカとして鑑賞者に浴びせかけてくる。
「ゲームなんて所詮遊びだろ。だが、その遊びの中に素晴らしい思い出があった」という気持ちを映画を通じて誰もが感動として共有できる作品を。
実際には、鑑賞者だけがその思いを怒りとして共有し、無数の憎しみを持ってアンチレビューを巻き起こすという結末が待っていた。
「コンテンツなんて所詮はコンテンツだろ。だから、なんでもアリなんだよ~~~ん」は思い出を傷つける行為だ。
それは途中まで進めたRPGに勝手にチートコマンドを打ち込んで全てのステータスを999にしてしまうかのような、それまでの物語とこれまでの物語両方への強烈な否定となりうる。
それが強いコンテンツであるほど、あまりに多くの人の思いが関わりすぎているのだから。
さあ、次は何が「ユアストーリー」されるんだろうね。
「標高高い系」とか「染色体ちょっと多い目」とかもうホントなんなのキミたち「ブリカス」なの?ってかんじ~()