文章を入力し送信ボタンを押す、という工程を必要とするネット上での発信は特にそれが強く働く。
しかし感情的なもの、特に悪意や攻撃性に類するものはそれを突破しやすい。
もちろんネット上に限らずだ。
こんなことは誰しも分かっていることで今更いまさら言うまでもない。
が、そう思って言わなかった結果…というより理性により敢えて言わずにいた結果生まれたのは
感情に偏ったネット上の言葉を鵜呑みにしてリアルで暴れるモンスターだ。
そして悪意によってルールが作られ始めた。
例えば「差別だ」「差別ではない」という問答に何故か当事者以外が首を突っ込む。
攻撃的な側は理性が緩くなり常に攻勢で、しかも「落とし所」が存在しない。つまり永遠に要求し続ける。
個々の感情で暴れる者同士結託しているだけで共通の目的を持たないからだ。
逆に責められる側は「余計なことは言わないほうが良い、面倒には関わらないほうが良い」という理性が働き言われるがまま。
そうして議論すらなされていないのに攻撃的な側の、悪意によって行動する側の意見が押し通る。
結果、悪意を持つ側にとって有利な前例ができその積み重ねが暗黙のルールとなる。
百歩譲ってここまでなら良い。
しかし近年こうした悪意に寄り添う法まで作られ始めた。
本来の「攻撃的なやつは無視するに限る」というセオリーはあくまで「システムによって自然淘汰される」という前提あればこそだ。
政治的な話がしたいわけではないから割愛するが、システムも所詮は人間だったということか。
システムの機能しない世界で「理性」は果たしてどう働くのだろうか。
理性ある人、そう聞くといかにも尤もらしい。
しかし現状を鑑みるに単なる保身でしかなかったのかと考えさせられる。