2021-04-10

理性

情報発信する際には誰しも理性という検閲を通す。

文章入力送信ボタンを押す、という工程必要とするネット上での発信は特にそれが強く働く。

しか感情的もの特に悪意や攻撃性に類するものはそれを突破やすい。

まり発信される情報は全体で見れば必ず悪意に偏る。

もちろんネット上に限らずだ。

 

こんなことは誰しも分かっていることで今更いまさら言うまでもない。

が、そう思って言わなかった結果…というより理性により敢えて言わずにいた結果生まれたのは

感情に偏ったネット上の言葉鵜呑みにしてリアルで暴れるモンスターだ。

 

そして悪意によってルールが作られ始めた。

例えば「差別だ」「差別ではない」という問答に何故か当事者以外が首を突っ込む。

攻撃的な側は理性が緩くなり常に攻勢で、しかも「落とし所」が存在しない。つまり永遠に要求し続ける。

個々の感情で暴れる者同士結託しているだけで共通目的を持たないからだ。

逆に責められる側は「余計なことは言わないほうが良い、面倒には関わらないほうが良い」という理性が働き言われるがまま。

そうして議論すらなされていないのに攻撃的な側の、悪意によって行動する側の意見が押し通る。

結果、悪意を持つ側にとって有利な前例ができその積み重ねが暗黙のルールとなる。

 

百歩譲ってここまでなら良い。

しかし近年こうした悪意に寄り添う法まで作られ始めた。

本来の「攻撃的なやつは無視するに限る」というセオリーあくまで「システムによって自然淘汰される」という前提あればこそだ。

そのシステムが上手く機能していない。

政治的な話がしたいわけではないか割愛するが、システム所詮人間だったということか。

システム機能しない世界で「理性」は果たしてどう働くのだろうか。

 

理性ある人、そう聞くといかにも尤もらしい。

しかし現状を鑑みるに単なる保身でしかなかったのかと考えさせられる。

それとも理性こそが「システムによって自然淘汰される」べき癌だったのだろうか。

もしそうであるなら世界順風満帆幸せに向かっていると言えるだろう。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん