2020-06-06

そのブ男は貧相な顔をあげて悲しそうに言った。俺は存在しないんです、と彼は言う。私は彼が何を言ってるのかよくわからないまま、遠くの流れ行く人混みの忙しそうな自転車の群れをながめた。なぜだか妙だなとも思わなかった。ここは日本でかつての中国でないなら、自転車の群れが街を行き来するはずもない。掴んだお冷の水滴がテーブルに落ちる瞬間、私はブ男から二言目の言葉を聞いた。

「チー牛って言葉が生まれときに俺は生まれたんすけど、俺としても生まれたくて生まれたわけじゃないんすよ」

気づけば水滴がテーブルに溜まっている。オーダーした丼は届かない。客足が遠ざかっているはずなのに奇妙な遅さだ。男はチー牛と呼ばれることに生来否定的感情を持ち合わせているらしい。にも関わらず彼は完璧無比にチー牛なのだ完璧無比にチー牛である彼が自らの存在忌避することそものが、彼のアイデンティティといえた。

「みんながですね、俺のことなんか忘れてしまえば、チー牛なんて言葉非実在系の人物を指す言葉として消えちゃうし、俺もいなくなるんですよ」

彼は悲しそうだった。自転車の群れの前に水滴が写り込んだ。コップの水滴ではなく店と外を区切るガラスにそれはついている。天気は灰色へと傾き、雨粒がガラスへとリズムを刻んだ。人通りがメリーゴーランドのように滲んでゆく中、彼も溶け出して消えてゆくように思えた。実際、彼は人々の思いがかくあるべしとして生み出された存在に過ぎないのだ。だからその存在理由自体が低くあれと定められているし、チー牛本人もそれを意識しなければならなかった。彼が軛から逃れる瞬間があるとすれば――例えば彼がイケメンになってしまう瞬間があれば彼は消えてしまう。

「その時は俺に似たチー牛がまたここに座るだけだと思います

では自分に似た誰かとあなた存在は別なのではないかと私が聞くと、たしかにそうだと彼は答えた。チー牛それぞれに緩やかな個性存在しているらしい。私はこのメランコリック非実在空間において富豪である認識した。誤認した、錯覚した、そのいずれかでもいい。富豪であるがゆえに今日はこうしてチー牛くんにご飯をおごってあげられる。そうともそれでいい。私は手に現れた札束を彼の目の前に置くと、彼自身がチー牛以外のオーダーを行うように促した。すると、置かれた札束を見て彼の目から涙がこぼれた。大枚を手にし、チー牛以外の丼を頼むという行為は人々のイメージするチー牛からはかけ離れており、彼自身レゾンデートルを失うからだ。

ありがとうございます

彼は札束を握りしめて、おろしポン酢牛丼を注文した。チー牛にあるまじきオーダーが店内に響き渡る頃、彼の指先は虹色につつまれ、目の前のお冷の水滴は消え、外にいた自転車の群れも消え去っていた。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん