http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2019/05/21/172032
http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2019/05/22/072351
上記リンクではアニマルライツ運動を奴隷制廃止運動になぞらえ動物の様々な権利を認めようと説く。
だが待ってほしい。黒人の権利ははじめから存在しなかったのか?違う。
彼らが彼ら自身の社会で持っていた権利は不当に奪われたのだ。何によって?人々の倫理観によって。
奴隷制廃止運動は倫理の敗北の結果として起きたのであり、そこに言及せず、倫理観を武器に戦うアニマルライツ運動の文脈で倫理が勝利した例として引き合いに出すのはあまりにも白人主義的である。
このような倫理観の敗北が起こったのはこの時代の倫理観が未熟だったからだろうか?
例えば上記リンクでは、現在において奴隷を持つ権利が自明でなくなったように、肉を食べる権利が将来において自明でなくなることを示唆する。
つまりアニマルライツ運動とは将来の倫理の先取りであるということで、これは「現在の倫理は過去の倫理よりも優れている」よって「将来の倫理は現在の倫理より優れている」という主張に他ならない。
本当にそうか?奴隷制廃止運動以後ですらそうとは思えない事例を我々はいくつも知っている。
最悪なもので言えばホロコースト、現在も大規模な民族浄化が進む中国、そして我々日本人が起こした戦争。
仮に将来において中国が世界の覇権を完全に握るとすれば民族浄化は倫理的に問題ないことになるだろう。ならば我々はその倫理観を「先取り」していいのだろうか?
自分たちの世界の行く末が分からないように、自分たちの倫理観の行く末も分からないと私は考える。
そういう私にとって自分に都合のいい将来を仮定しそこから倫理観を持ってくる論理は非常に不誠実に感じられる。
(以下蛇足)
こういった論理を用いなくても現在の倫理観でやれるところまでやり、達成が困難な目標に対しては倫理観の変革は後回しでよいのではないか。前者について例えば家畜の飼育環境の改善などは現在の倫理観でも十分対応できるし、後者については肉の代替品が健康面等で肉に勝利すれば倫理観はあとからついてくるように思う。