アメリカンフットボールの事件の記者会見を断片的ながら見た。
酷い話だ、と思い、記者の質問にも、ちょっとどうかと感じながら、見ていた。
結局直接的な表現はコーチからでており、監督は何も言っておらず、選手自身からやりたいと言わせる構図は、何とも言いがたいものだった。
記者の質問は、まっとうなものから、それは今聞いてどうするの、というものもあった。
けれども、彼らはそうしなければ、社に戻った時、またはあの記者会見場で他の記者から、記者としての行動を評価される立場なのだろうなぁとも思った。
山登りで亡くなられた方のフェイスブックと応援コメントを見た。
そこにはポジティブな話が並んでいたが、ぼんやりと、こういう発言しか許されない空間なのだろうなぁとも思った。
あの応援コメントの中で、否定的な行動や、現実的な行動は取れたのだろうか、と思ったりした。
同意はあるのだろうし、女性も楽しんでいるのだろうとは思った。
女性の性欲が、表面化される過程としては悪くはないのだろうが、けれども、と思った。
それは女性アイドル活動のあれやこれやの初期の頃にもった違和感と似ていた。
ぼんやりと、酷いことをさせる為の技術としての忖度は、果たしてファン活動と、どれ程の差があるのだろうか、と思った。
そういった行動をあたかも自分が輝く為の、自分の意志で行っているという時、その本人の意志は、本当にその人の意志なのだろうか?
単に責任者が多いだけの、見えづらくなっているだけの、それだけの違いなのではないだろうか。
そもそも、社会的仕事において、層ではない仕事があるのだろうか。
人間関係もそうではないだろうかと思ったりもするのだけど。
とは言え、どこかで線引きをしなければならないけれど、そこにおける無自覚な加害者は、何の責任も負わないで済む状態なのは、何とも言いがたいものだなぁと思ったりするのであった。