「このさびしさをどしたらいいの」ということを延々考えて、人生単位で見てもそれはそれは長い時間を浪費しました。
その中でまず気付いたことは「人はさびしいとおかしくなる」ということでした。
ひっくり返すと、人がおかしなことやってるときは、だいたいさびしいんだよな。
さびしさを動機にして人や自分を裁いても、よけいさびしくなるばかり。
なにかを裁くということはなにかを切り捨てることだ。
さびしいのに、いろんなものをどんどん切り捨てて、自分さえも許せなくなって、狭く、小さく、よけいさびしさを募らせるばかり。
おかしなことだ。
さびしさとは無縁に見える、幸福そうなあの人と、わたしは何が違うんだろう。
考えればなにもかも違うように見えたし、でも本当のところはどこがどう違うのかよくわからない。
自分がどうしてさびしいのかわからなかったし、さびしくなさそうなあの人との違いもわからなかったので、わたしは「楽しく見えればそれでいい」と決めて、それ以上のことは求めないようにしたのでした。
「人が吸い寄せられるものは、優しい」ということ。
一見優しさとはかけはなれて見えるものでも、そこに人が吸い寄せられているならば、それはその人にとって優しいのだよ。
この世にはわたしのしらない優しさが無数に存在していて、ただ見出だされるのを待っているのだと気付いたとき、世界が変わって見えました。
では、その優しさに反応する心とは何だろう。
そう思いました。
人それぞれが固有のさびしさを抱えていて、固有の優しさに惹かれて、繋がって、世界というのは出来上がっているようだ。
そういう気がする。
「さびしさは引力とする」
さびしいときに、そのさびしさの犯人探しのようなことをして、いろんなものを一方的に裁いたりしていたけれど、それはわたしを幸福にはしなかったから、もうさびしさに意味を求めるのはやめようと思ったのです。
さびしさは、優しさを指向する引力で、それ以上でもそれ以下でもない。
だから、その引力を濁らせないで、本当にいちばん惹かれるところに、素直に引っ張られてみよう。
わたしの場合は具体的な話をすると、それはたとえばボードゲームだったりKBG部だったりするのですが、とにかく、なるべくさびしさで世界を切り捨てたりゆがめたりしないで、素直に優しさに惹かれていこうと思ったのでした。
さびしさなんてどうせちょっとうれしいことがあれば蒸発してしまう揮発性の感情で、それをわざわざ恨みとか自己嫌悪なんかのめんどくさいものに加工する必要はない。
今でもときどきさびしさの波のようなものは訪れるけど、別におそれるようなものではなくて、そういうときもあるわね、というぐらいで、おおむね楽しくやれています。
なりたかった状態に自分を持っていけたことは、うれしかったし、安心した。
それで今になって思うのは、かつてさびしさに無縁で幸福そうに見えたあの人たちにも、きっとさびしさの波は訪れていたのだろうということです。
それだけのことなんだ。
大人なんてさびしくて当たり前で、でもそれはただ優しさを指向する力で、だれのせいでもなくて、みじめに感じることもなくて、その力にさからわずに、惹かれるままに、自分のさがしているものを見つければいい。
会いたい人には会いたいといって、いきたいところには素直にとびこんで、泣きたいときには思いっきり泣いて、さびしさでいろんなものとつながっていけばいい。
でもそれでいい。
たくさん間違えて、長い時間がかかったけれど、ようやくここまできたよ。
詳しくは書かないが、ひょんなことから寂しさを自覚してしまった。 それまで寂しいと思ったことがなかった。「寂しいと頭の中で言ったことがなかった」のほうが正確かもしれない。...
「このさびしさをどしたらいいの」ということを延々考えて、人生単位で見てもそれはそれは長い時間を浪費しました。 その中でまず気付いたことは「人はさびしいとおかしくなる...