わたしは夢を持ったことがない。おそらくない。あるとしたら、物心つく前の、幼少期のほんの思い付きくらいだろう。
わたしは親の敷いたレールに乗せられて、さすがに順風満帆とは言わないでも、成長した。
成長した私は、鬱になった。わたしはアダルトチルドレンで、両親はいわゆる毒親だった。
とはいえ、それはもうどうしようもないことなので、本題に移りたい。
わたしは経験哲学というものがすきだ。にわか仕込みではあるが。
なぜなら、わたしは「われ思うゆえにわれあり」という文言が大嫌いだったからだ。
この問答に終わりはなくて、結局なんらかの「真理」めいた『目標』が必要になる。
それが嫌だった。夢のないわたしはその『目標』が持てなかった。
だから、経験哲学に傾いた。あるいは、この言葉を使うのは間違いかもしれない。
なによりにわか仕込みなのだから。とはいえ、便利だからこの言葉を使うことを許してほしい。
経験哲学においては、「わたし」とはわたしについてのあらゆる経験が「わたし」を作る。
「わたし」を見る瞳、「わたし」を想う誰かの思念。そういったものが、「わたし」という存在を肯定する。
つまりは。
そういう論理で、わたしは生きてきて、わたしを作るほかのひとを愛していた。
じゃぱりぱーくにいるのに理由はいらない。なぜならそこはみんなの家であるから。
じゃぱりぱーくにいるのに目標はいらない。なぜならそこには家族がいるから。
それはわたしの理想で、わたしのハマった経験哲学もどきを体現した世界だった。
きっとこの作品を見れば、みんなもっと優しく生きられると確信した。
けれど、現実は違った。
誰かしらのエゴで、「けものフレンズ」の世界にはもはや陽が射さなくなった。
ことの原因を作ったエゴの持ち主にも、猜疑心に踊らされているファンにも、悲しみさえ覚えた。
こんな優しい世界を潰し、その上その世界が教えてくれたものすら忘れてしまっていることが、悔しかった。
けれど、いまになって思えば、こんな事件が起きなくても、怒りに飲まれたファンでさえも。
「けものフレンズ」のことなんて忘れて、同じことを繰り返していくんだろうなぁ、と。
作品が人に与える影響力なんで、ほんのちっぽけなものでしかないと思ってしまった。
今だから言おう。
わたしは「けものフレンズ」を見て、こんな優しい物語を作りたいという夢を持てた。
それがかなわないのであれば、せめても誰かを助けられる仕事に就きたいと思う。
「けものフレンズ」のちっぽけな影響力は、けれどわたしには届いた。
だから今度は、私が届けたいと思う。