「だった」と明示的に書くのには理由がある。
わたしは現在20代で、比較的偏見の目も少なくなりつつなる世に生まれた方だと思う。
言うまでもないが、性同一性障害といのは「性自認」における「同一性」の障害だ。
よく性別適合手術まで受け、戸籍変更した元男性も言うが、性別適合手術を受けたからといって、遺伝子は変わらないし、元男である事実はまぎれもない事実だ。
要するに結局はアイデンティティに関する障害であると言うのがこの病の本質だ。
わたし自身は性別適合手術を済ませ、戸籍変更も済ませているが、その後もカミングアウトによる偏見の目というのは少なからずある。
これは良い悪いという話ではなく、性同一性障害の当事者をどう見るかなんて言うのは差別でも何でもない。
その人の捉え方だ。
もちろん、性同一性障害を理由に不当な社会的制裁を下すのは現在の法律では禁じられているが、どう思うかなんてのは自由でしかない。
話を戻そう。
先にも述べたが、性同一性障害はジェンダーの問題であると同時にアイデンティティの問題でもある。
アイデンティティを非難する理由の1つがジェンダーであり、ジェンダーというのは今の医療技術ではどうしても限界があるというのがこの病の難しい点だ。
しかし視点を変えれば、アイデンティティはジェンダーだけで構成されるものではない。
あたりまえのことだ。
「わたし」を構成する要素は性別であり、年齢であり、特技であり、苦手なことであり、実に様々だ。
トランスセクシャルや性的マイノリティというのはもちろんそれを構成する要素の1つだが、再三言うがそれだけではない。