「女や有色人種だったら無制限に優遇しろっていうのかよ、ふざけんな」
と言って反ポリコレに走る人が目立つ。
しかし、そもそもポリコレの本質とはそういうことなんだろうか。
ポリコレ運動が高まるにつれ、「とりあえず女とかを優遇するやつ」のように認知されていき、
ポリコレに「ポリコレらしさ」が生まれてしまい、本質を見失ってはいないだろうか。
そもそもポリコレとは、
「同じ人間なので、あなたが目にするものはその人も目にします。目にしてどう思うか考え、配慮しましょう。」
ということではないだろうか。
女や他人種や性的少数者は「被差別属性の代表格」というだけだ。(当然他にも被差別属性はある。)
男や白人やシスヘテロは「差別する側にまわりがちな属性」というだけだ。(必ず差別しているというわけではない。)
「目の前の男は男なので、女をいじめてきた差別者である」という意見はポリコレの皮をかぶっているようで、
ポリコレを主張する側の論理が破綻しているのなら、論理の破綻自体を指摘すればいいのであって、
「間違ったことを言っている奴が掲げる正義は間違っている」とポリコレ自体を批判してしまうと、(差別者でないと前置きするか、ポリコレに代わる新しい差別反対の概念を打ち出さない限り)差別者と同じになってしまう。
(もちろん差別するつもりで差別するというのならもう言えることはない。)
ポリコレ側にも「私が男/多数派として生まれてきて、この意見を見たらどう思うか」という視点が必要だ。
「割を食ってきた側だけそんな大人の対応を強いられることこそ差別」という意見もよく見るが、
最終的には属性が解体されて、個人vs個人になっていけばいいと思う。
「万人は同じ(平等な)人間であり、違う(別個の)人間である」という方向を目指すのが、政治的に正しい「政治的正しさ」であると思う。
個人対個人になって一人ひとりが個別に評価されるようになったとして キモくて金のないおっさんは誰からも顧みられず孤独死する一方 若い女は金持ちに囲われて生き延びることが容易...
何百回目に言われてきたことかわからないけど一応もう一度書いとくと、 ポリティカル・コレクトネス自体は全く間違いがなく、真面目に主張をしている人は 女性だろうが有色人種だろ...