祖母は、例えば、取り分けしやすいように食卓に並んだ食器のレイアウト変更を試みたり、
デイサービスの車が来る15分前に自宅外で待っていたり、気配りを欠かさない人だ。
しかし、本当に大きく周囲への気配りにつながる、補聴器の導入には決して首を縦に振ろうとはしない。
食器のレイアウト変更にしろ、15分前待機にしろ、何度「しなくてもいいですよ」と言われても、
まだ比較的軽めだと思われる認知症の影響からか、行動の変化は見られない。
祖母の気配りは、要は、自分の思い通りにしたいということが表れているのだと俺は思っている。
父方祖母ということもあり、
介護の為ではなく自分の都合で早期退職し、現在、在宅ワークをしている父が主に面倒を見ているのだが、
父と祖母のやり取りを見ているだけで、介護の重労働さは十分伝わってくる。
常に家にいる父に嫌気した母が介護のパートに就いたのは5年前のこと。
話を聞くとやはり大変な印象を受けるが、辞める気配はない。
50代中盤の母が今お世話をしている利用者は、もしかすると、20年後の母自身かもしれない。
そういう、避けられない人の道を先取りして見ることの恐さ、悲しさ、はかなさみたいな感情で
むなしくなったりしないのだろうかと思う。
聞くことはできないが。
どんな仕事にも辛さはある。
労力と給与のバランスがちぐはぐな仕事なんて山ほどあるだろう。
しかしそれでも、何かしらやりがいwみたいなものを探そうと思えば探せるのではないだろうか。
俺の大きな偏見は、介護職にはそれすらをも見いだせないと思っているところだ。
その仕事自体はプラスだが、老人やその老人の家族が抱える多様で大きなマイナスの流れを
彼らの働きによって0にすることは難しい。
彼らがどんなに一生懸命働いたとしても、要介護1が要支援1になることはない。
マイナスの加速度をいくらか和らげることはできても、プラスの流れに変えることは決してできない。
介護職は社会にとって間違いなく必要で、介護職に就いている人を尊敬している。
しかし、重労働、低給与の上にそういう精神面の部分でも得られるどころか失いかねない、介護職を俺は選べない。
むしろ、俺にとって低給与以上に精神面の方が辛いかもしれない。
だから、介護職に就いてる人がどんなことを思っているのか凄く気になる。
俺と同世代ぐらいの見た目好青年っぽい若者は完全に仕事と割り切っているのだろうか。
仕事以外のことをしている時に感じる幸せを、ちゃんと幸せとして感じられているのだろうか。
仕事の影響があまりにも大き過ぎるせいで介護職に就く前は容易に感じ取れていた幸せを、
そんな偏見を持っている。