子供のころ、両親が突然無気力になって家事も仕事も放棄してしまうんじゃないかといつもビクビクしていた。特にいつも以上に機嫌が悪いときにそのままプッツンといってしまうんじゃないかとかと思った。両親に限らず、例えば学校の先生なんかも突然「もういいや」と教えるのをやめるんじゃないかと思っていたし、アニメのキャラが精神的にダメージを受けて意欲を失ってしまうシーンにはドキドキした。
それは中二病的なものではなく確実に不快なもので、漠然としてるけどモヤモヤと無限に広がっていくような不安感だった。
それから15年ほどたった現在、病気が直接のきっかけとはいえ仕事を辞めてしばらく経つ俺は、まさにこの状態に陥っていることに気が付いた。かつて他人に対して不安に思っていたことを自ら実現しているのだ。これに気付いたとき、まるで子供のころの俺が頭のどこかでこうなること予見していて、その不安を他人を通して感じていたみたいだと思った。
ところで人は自分の中にない発想を他人の行動原理として想像することはできない。例えば童貞は馬鹿にされるものという発想がない人は、自分が童貞でも他人が馬鹿にしてくるとは思わないし、他人に対しても馬鹿にしない。逆に言えば両親が怠惰な生活に堕ちるんじゃないかと不安に思っていた俺は、自分を含めて人はそうなる可能性がある(それも結構簡単に)という考えを信じていたことになる。だれしもがぎりぎりのところで頑張っていて、その張り詰めた糸が切れれば廃人になってしまうと。思えば当時も、ちょっとバランスが崩れれば今の生活が壊れてしまいそうな感覚を持ちながら毎日過ごしていた。まあ今となっては、その「人類皆ぎりぎり説」はあながち間違ってもいないと思うが。
子供の俺はその説を本やらテレビやらから種となるものを仕入れて発展させたのか、それとも自分の中にその可能性を感じとったのかはわからないが、こんな思い込みをしてたのは俺だけだろうな。