「王様が何で王様かというと、王様が王様を王様と決めたからだ」
という文章から始まる”星の鳥”という物語。この物語について心理学的観点から少し考察してみたいと思う。この文章を読むにあたって、筆者はまだこの心理学について勉強の途中であり、未熟な考察が多々あるかもしれないがお許しいただきたい。この日記から、また星の鳥という物語に、BUMP OF CHICKENというアーティストのすばらしさに気づいてもらえたら幸いである。
この物語は、”王様と呼ばれる彼”が、もう一人の彼である星の鳥と出会い、”本当に王様と呼ばれる彼”になっていく物語である。
私の学ぶ心理学では、”自己実現”という言葉がしばしば登場する。それは端的に言うと、”自分が自分と出会う”という体験であり、”出会った新たな自分を、自分の中に統合していく”ということだ。自分が今まで見てこなかった、気づいていなかった、切り離してきた自分。人間のこころは、それらの自分へ出会おうとするエネルギーを持っている。学術用語では、「こころの全体性」なんて言い方をする。
王様と呼ばれる彼は、星の鳥という物語を通して、深く、そして厳しい自己実現の道のりを歩んでいる。
自分自身を王様と呼ぶことを決めた彼は、自分のことを”王様”としか見ていなかった。だから、こころが全体性を求めるエネルギーが現実世界へ溢れ出し、様々なものを王様は欲しがっている。しかし、そのどれもは自分のものであって、自分じゃない。満たされない思いは、”胸のあたりをぎゅうっと”させる。
そんな時に、彼は星の鳥と出会う。”星の鳥”は彼がそう名付けただけのものであり、実際は何なのか、物語の中では描かれない。彼が見た星の鳥は、他の誰にも見えることはなく、彼にしか見えていない。星の鳥は、本来彼自身であるべきものなのである。彼の中にある、”王様”以外の自分ーー彼はそれを星の鳥と名付け、それを自分のものにすることを求めた。
そして、そのために非常に厳しい道のりを歩み始める。
様々な試行錯誤を繰り返し、体に傷を負い、他のものたちに笑われーーそうして彼は気づく。星の鳥と自分自身が似ているということに。
そして、この自己実現、つまり、星の鳥を自分のものにすることは自分一人ではできないことに気づく。自分の力がないことを認め、他の動物たちへ頼む。自分の唯一のアイデンティティであった王様であることすら放棄し、それまで自分の一部だと思っていた大切な宝物も差し出し、それも一蹴され、、彼にとっては相当辛い体験だったはずである。しかし、自分を一度やめるところまで深く、厳しい体験をしなければ、星の鳥を手に入れることはできなかったのだ。
彼は、たくさんの仲間と共に星の鳥を作り始めた。しかし、やがて”死”が訪れる。
私の学ぶ心理学では、”死”を単純なイメージとして扱うことはない。”死”は変化の象徴として扱われることもあり、必ずしもネガティブなイメージではない。ここでの彼の死は、象徴的な意味での変化を表しているのではないだろうか。本当の彼自身になるために必要な、死。星の鳥を自分のものにするためには一度死の道を通らなければならなかった。
彼は星の鳥の中心部へ埋葬される。
星の鳥が完成し、王様としての彼の象徴であった冠が彼の墓にかけられた時、彼は猫として生まれ変わり、世界に再び生を受ける。星の鳥である彼自身が王様である彼自身へと統合され、より高次の存在であるネコへと再生されたのだ。
ここで面白いのが、物語の最後に、統合されたはずの星の鳥が再び登場するということだ。
これまで考察してきたように、星の鳥は自己実現の過程で必要な、自分自身が気づいていなかった自分自身である。完璧な人間はすべての自分自身を余すところなく統合し、認知下に置いていると言えるが、完璧な人間などこの世には存在しない。どんな人間のどんな時にも、切り離してきた自分自身は存在するのだ。それを象徴するものが星の鳥であると私は考える。
そのため、一つ星の鳥を自身に統合できたからといって、星の鳥は消えない。星の鳥は、再び新たな自分自身を連れて、ネコの元へやってくる。
”自己実現”について長々と考察をしてきたが、自己実現はすればするほど良いというものでもなく、そう簡単にできるものでもない。星の鳥の物語に描かれているのは、非常に厳しい自己実現の道のりである。簡単にできる自己実現などは、この世に存在しない。しかし、全く自己実現を行わない人間もいないーー。
ーーだから、「思い出した 星の鳥だ」くらいに考えておけばきっと良いのだろう。